スサノオの上陸地

五十猛神(いそたけるのかみ)の真相に迫る 13
 スサノオの上陸地
                         三井淳

スサノオの上陸地として知られるのが、石見との境に近い山口県の須佐(すさ)である。今は萩市に編入されているが、もともとは阿武(あぶ)郡須佐町といった。
標高五三二、八Mの高山(こうやま)のふもとに広がる須佐湾は県内屈指の良港であり、中近世には朝鮮貿易の拠点であったというが(平凡社歴史地名大系36「山口県」613頁)、そもそもの位置取りからして、半島との関係は須佐の宿業(しゅくごう)たるべきものだろう。
高山(こうやま)は本来神山(こうやま)といって、スサノオがこの山を目途(もくと)に入湾したのだといういわれは、佐比売(さひめ)山を頼りに、スサノオの一族が神島(かみしま)、子神島(こがみじま)、神上(しんじょう)を経て、大浦の浜に上陸したという五十猛町の伝承と同質である。
五十猛にもスサノオが上陸したという伝承があるものの、町名は「イソタケ」に納まった。つまり、この地に上陸したのは本来スサノオではなく、イソタケルを号するものであったことを言い表している。となれば、山口県の須佐にはスサノオが上陸したが故に、「須佐」を頂いたのである。山口県には、須佐はおろか、県全体について今の所イソタケルにまつわる伝承がまるで伺えない。これの意味するものは何かと問われると、確(しか)たる解答に苦しむが、こういうことは言えるかもしれない。
須佐の地にスサノオを頂く集団が渡来してきたのは、「スサ(ノ)オなるイソタケル」の上部スサ(ノ)オが遊離独行した後、あるいは本体のイソタケルが忘却された後のこと、であったかもしれない。要するに、須佐の渡来びとは、五十猛の渡来びとより遥かに新しかった「今来(いまき)」の部類だったのではあるまいか。
それと今ひとつ、朝鮮神である「スサ(ノ)オ」号の伝来は、イソタケルノカミ示現より遥かに古かった節(ふし)がある。水野祐博士は、仁徳天皇の諱(いみな)「大鷦鷯(オオサザキ)」や、武烈天皇の「小泊瀬椎鷦鷯(オハツセノワカサザキ)」の「サザキ」は、「スサ(ノ)オ」と関連があるという(井上光貞著、中公文庫「日本の歴史(一)」376頁)。となればイソタケルとは没交渉に、「スサ(ノ)オ信仰」が伝わっている可能性もある。
                     
                    (五十猛歴史研究会会員、みついあつし)

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