大屋津姫(オオヤツヒメ)柧津姫(ツマツヒメ) 大屋彦(オオヤビコ)

五十猛神(いそたけるのかみ)の真相に迫る

18大屋津姫(オオヤツヒメ)柧津姫(ツマツヒメ)大屋彦(オオヤビコ)

                          三井淳

 イソタケルのイロモ(同母の妹)とされるオオヤツヒメとツマツヒメは、イソタケルと違い「あまくだり」はしていない。大田市川合町の漢女(からめ)神社の「からめ」はツマツヒメのことといわれる(藤井宗雄「石見国神社記巻一安濃郡」山崎亮翻刻版)。「からめ」は「韓女」で韓国の女性を意味する。
 イロモとあらばイソタケルと母が同じでなければならないが、イソタケルはアマツカミであり、スサノオの分身であるから、ツマツヒメとは別次元の神である。従ってイロモという格付けは、日本書紀の誤りなのである。
漢女神社より静間川の下流域に当たる、長久町土江の邇幣姫(にべひめ)神社は、オオヤツヒメとツマツヒメを祭る(大田市誌)。オオヤツヒメはツマツヒメと同格の神だから、これも「からめ」である。この「からめ」とは、スサノオが新羅の女性との間にもうけた女子ということになる。
「続往還を行く④角折(つのおれ)」でも書いたが、現在大屋姫命神社が鎮座する山は、古代「大屋津」の名残りであり、角折(津の折)はその末端の部分で、それから先は海となる。「大屋村勢」に「柧津姫は津の折に鎮座ましましける霊地なりと云い」とあるが、角折のツマツヒメ祭祀など今迄聞いたことがない。今後その証(あかし)が得られるかもしれない。いずれにしろ大屋町では、角折は「大屋津」の一部の名に過ぎない。古語の「ツマ」には「ハシ」の意味があり(岩波古語辞典)、「ツマツ」と「ツノオレ」は同じことなのである。
オオヤツヒメとツマツヒメは二神格であるが、本来は「オオヤツヒメ」という一柱の「韓女神(からめのかみ)」だったのではないか。恐らく、スサノオとイソタケルが分離した時点で、「津」を介して今一つの女神を創作したのだろう。藤井宗雄はツマツヒメにつき、「韓神の后神に坐に就て申すか」(前出石見国神社記)との説もあると言い、「からめ」はスサノオ及びイソタケルの妻であった節(ふし)をにおわす。
古事記には、オオクニヌシをかくまった紀州の大屋彦(オオヤビコ)のエピソードがある。このオオヤビコはイソタケルの別名であるという説(本居宣長「古事記伝」)がある。しかしそのオオヤビコなるは、スサノオより先に生まれている。

五十猛歴史研究会会員 三井淳

「グロ」について

五十猛(いそたけるのかみ)の真相に迫る 17 

「グロ」について        三井淳

 小正月(こしょうがつ。一月十一日から一月十五日)を迎えると、各家庭の正月のしめなわ飾りやかど松などを持ち寄り、仮屋(かりや)を結び、そのなかで焼却する「どんと焼き」の行事は、日本の各地で現在でも行われているが、大田市五十猛町では、古くからこれを「グロ」と呼んでいる。田の畦(あぜ)を日本書紀では「クロ」と訓んでいて、それは専ら刈った雑草の堆積(たいせき)を指す言葉だった。徳島県では、刈ったススキを肥料にするため積み上げたものを「コエグロ」といっている(十月十六日NHK朝のニュース)。
 グロといいクロといい、これらは「まるい状」を表す擬態語の「グルリ」とか「クルリ」に関係があるらしい。ものをほうり投げて積み重ねると、自然に円状の敷地を基礎に嵩(かさ)が増していく。まずもって、方形とはならない。原初的構築物は大概円の上に成り立っている。「蔵」や「倉」を「クラ」といい、城郭の「郭」を「クルワ」というのも、「クルリ」とまわりを囲った、筒状のものに淵源した故だろう。
 我が国東洋史学の開祖である白鳥庫吉(しらとりくらきち。一八六五~一九四二)は、韓国語で城邑を表す「忽(コル)」は、日本語の「クルワ」と濃縁であるという。更には、この「クルワ」や「コル」は、モンゴル語で「家」をいう「ゲル」とも関連するともいう(以上岩波書店「白鳥庫吉全集第三巻227~232頁より」。
 大モンゴル帝国の故都「カラコルム」、現首都ウランバードルの旧称「クーロン」の「コル」や「クロ」も、「クルワ」や「コル」と同じ発想から生まれた言葉と思われる。有名なモスクワのクレムリン宮殿の「クレ」というのも同疇(どうちゅう)ではないか。

  「城寨(クレムリ)」というのは、堀をめぐらし、柵を植えこみ、そのなかに指揮者、
武装者、商人、農民、工人などが住み・・・・・・・・・・・・
司馬遼太郎「ロシアについて」
57~58頁文春文庫

 研究社の英語語源辞典を見ると、ローマの円形格闘場の「コロシアム」の「コロ」や、新聞や雑誌の囲み記事を請う英語の「コラム」の「コラ」、同じく馬の囲い柵の「コラル」の「コラ」も「まるくかこむ」が原義という。
 五十猛の仮屋「グロ」とは驚くべき国際語であった可能性が大なのであり、韓神(からかみ)が示現したこの石東の漁村には、悠久(ゆうきゅう)の世界遺産が今なお息づいていると言えよう。
五十猛歴史研究会会員 みついあつし

韓神(からかみ)

五十猛神(いそたけるのかみ)の真相に迫る 16

 韓神(からかみ)

              三井淳

 ほぼ同様の始祖神話を有し、経済的にも鉄という太い紐帯(ちゅうたい)で結ばれていた加羅からは、様々な文化が伝わっている。その一つに「韓神(からかみ)」がある。
 上田正昭博士の研究によると、韓神はかつて平安京宮内省の重要な祭祀であり、現在でも「三島木綿(ゆふ)肩にとりかけ われ韓神の韓をぎせむや・・・・・・」という神楽歌が残っている(三一書房「日本庶民文化史料集成1」上田正昭著)。上田博士によると、「韓(から)をぎ」とは「韓風の神おろし」を意味するといい、海上から韓神を招来することにほかならない。
 韓神とは古事記に出てくるスサノオの孫のひとりで、兄弟神に曽富理神(ソホリノカミ)がある。この韓神、曽富理神につき、平田篤胤は、

   平田大人ハ、内侍所御神楽式(ないしどころみかぐらしき)ト、大宗秘府略記トニ依リテ、此ノ二ツノ名ヲ五十猛神ノ亦ノ名ト決メテ、サテ古史伝(平田篤胤の著書)ニ「五十猛神と申す義は、韓國伊太氏神とも申す如く、蕃國々(からくにぐに)に渡りて還り給へれば、称(い)ヘリ・・・・・・」(岩波書店、那珂通世「外交繹史」219~220頁より引用)

として、日本書紀のイソタケルノカミに相当すると言っている。
 大田市五十猛町大浦地区の氏神を「韓神新羅神社(からかみしらぎじんじゃ)」というが、
現在は大浦港西奥の泊山(とまりやま)のふもとに鎮座する。ここは比較的風波の穏やか
な一角である。大浦の外海へ突き出す小岬を「茂梨(もり)」というが、これはスサノオ・
イソタケルの新羅での根拠地「曽尸茂梨(ソシモリ)」のことだといわれている。ソシモリ
とは韓国語で「みやこ」のことを言う「ソウル」に相当する。新羅は最初の国号を「徐那
伐」とするが(三国史記新羅本紀始祖赫居世居西干条)、これは「セパル」と訓んで「ソウ
ル」のことを言う(前同六興出版完訳本より)。新羅は本来「シンラ、サラ」と訓むべきで、
これも原義「ソウル」のことなのである。してみると、韓神新羅神社の祭祀はソウルの地、
シンラの地、ソシモリの地、乃ち「茂梨」にこそ原点があったのではないか。

(五十猛歴史研究会会員 みつい あつし)

任那と加羅

五十猛神(いそたけるのかみ)の真相に迫る 15
 任那と加羅
              三井淳
                             
                              
 任那(みまな)とは、何を意味する言葉なのかというと、二通りの意味があったらしい。一つは南部加羅諸国の中心であった現在の金海(キメ)の別称であり、今一つが、加羅全体(新羅と百済に挟まれる一角)をも言う場合の任那である。
 「任那(みまな)訓み」の誕生の経緯については、鮎貝房之進の諸考(国書刊行会「日本書紀朝鮮地名攷」)が依然有力である。金海(キメ)は元来須那羅(スナラ)と呼ばれ、その外港を「主浦(ニムラ)」といった。古代の韓国語では「主」の訓は「ニム」となるが、倭人は「任(にん)」を以って「ニム」に当てた。「二」の音は不安定で、往々「ミ」となる。意識して発音してみればわかるが、「ニ」と「ミ」は口びるを半開きにするか、くっつけて発音するかの差異に過ぎず、交換しやすい音なのである。土地を表す語尾のラはヤやナに変化することがある。結果ニムラ→ミムラ→ミマナの転変となったという。主浦(ミマナ・任那)は須那羅等加羅諸国へ向かう倭人の初踏点として重要視され、やがて須那羅のみならず、加羅全体をも倭人は「ミマナ」と呼ぶようになった。(以上鮎貝説)
 三国志東夷伝弁韓条【弁の韓訓が、加羅(カラ)。】に、「国鉄を出だす。韓、濊、倭皆従いてこれを取る」とあり、任那の本称である加羅には、三世紀頃既に多くの倭人が住みついていて、それは専ら加羅鉄を渇望する余りの衝動であったことが分かる。がそれにもまして、加羅とヤマト(倭の統一政権という意味で)はほぼ共通の開国説話を有していることに注目すべきで、両国は源(みなもと)を等しくすると言っても過言ではない。
 三国遺事紀異第二「駕洛国記」に、初代王首露(スル)が、亀旨(クシ)に降臨したことを伝えている。駕洛(ガラク)は加羅のことで、ここでは金海(須那羅)を言う(朝日新聞「完訳三国遺事」192頁)。同じような話しが日本書紀にもあり、神代下第九段の一書(あるふみ)の第一では、皇孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、日向の高千穂の槵触峯(クジフルダケ)に降臨する。槵触の「クジ」は加羅の「亀旨(クシ)」と一致する(岩波文庫版日本書紀第一冊分三七二頁、補注二ノ十三)。

(五十猛歴史研究会会員 みついあつし)

イソタケルノカミの成立

五十猛神(いそたけるのかみ)の真相に迫る 14
イソタケルノカミの成立

            三井 淳

 ここで根源的な疑問に立ち返らなければならないだろう。イソタケルがはたして、六世紀新羅の大将軍異斯夫(イサマラ)がモデルであったとして、ならばなにゆえヤマトの勢力を尽く加羅の地から追っ払った張本人、本来憎んで余りある敵将を神として崇め奉らねばならなかったのかという、古代日本人の心理についてである。
古代人が、ある事象なり人物なりを神として祭りあげる心理というものは、必ずしも崇拝の念とは限らず、それこそ複雑怪奇であって、現代人には容易に理解出来るものではない。最大の謀反人である平将門を、平安朝は最終的に神田大明神に合祀しているが、これは将門斬首の後、やたら異常事続発して、人々は将門の祟(たた)りじゃと心底(しんてい)これを怖れた挙句の始末なのである。拭いされざる恐怖の記憶は、後世に様々な影響を及ぼすらしい。霊だ鬼だなどと、人は理解不能の様々事象に思い馳せては深からの恐ろしさに震えあがる。しかし、住々それは畏敬の念に転換さえする。「祝(いわ)う」と「忌(い)む」という音の近似するものの、意味が正反対となる言葉がある。ところがこの言葉は、元々同源であるそうな。
イワウとは祭るとか寿(ことほ)ぐの意であるが、イムは嫌い、にくむの意となる。しかしこれはともに凶事汚穢を避け、万事を慎むの意で、神に仕えることに用いられた言葉であったという。そして両語に共通の語幹「イ」は、「神聖・呪力のある状態」を言うものであった(以上は真弓常忠著「神道祭祀」26~27頁より。朱鷺書房刊)。こういわれると、この上なく憎い敵に対する感情が、なんだかはなはだ憚(はばか)られるものとして、いつの間にか仰ぎ見るようになる、そのような心理の逆転現象を、理解出来なくもない。
 敵を崇める事例は、実は近代でも見いだせる。日露戦争の最終局面、連合艦隊所属のの一水雷艇長は、敵艦撃沈すべくなんと願を李舜臣(イスンシン)に懸けるのである。李舜臣こそは、豊臣秀吉の水軍を悉(ことごと)く海の藻屑(もくず)と化した、李氏朝鮮最高の海将だった(以上司馬遼太郎「坂の上の雲」文芸春秋、より)。敵にせよ味方にせよ、人は本能的に強い者が好きなのである。

(五十猛歴史研究会会員 みついあつし)

スサノオの上陸地

五十猛神(いそたけるのかみ)の真相に迫る 13
 スサノオの上陸地
                         三井淳

スサノオの上陸地として知られるのが、石見との境に近い山口県の須佐(すさ)である。今は萩市に編入されているが、もともとは阿武(あぶ)郡須佐町といった。
標高五三二、八Mの高山(こうやま)のふもとに広がる須佐湾は県内屈指の良港であり、中近世には朝鮮貿易の拠点であったというが(平凡社歴史地名大系36「山口県」613頁)、そもそもの位置取りからして、半島との関係は須佐の宿業(しゅくごう)たるべきものだろう。
高山(こうやま)は本来神山(こうやま)といって、スサノオがこの山を目途(もくと)に入湾したのだといういわれは、佐比売(さひめ)山を頼りに、スサノオの一族が神島(かみしま)、子神島(こがみじま)、神上(しんじょう)を経て、大浦の浜に上陸したという五十猛町の伝承と同質である。
五十猛にもスサノオが上陸したという伝承があるものの、町名は「イソタケ」に納まった。つまり、この地に上陸したのは本来スサノオではなく、イソタケルを号するものであったことを言い表している。となれば、山口県の須佐にはスサノオが上陸したが故に、「須佐」を頂いたのである。山口県には、須佐はおろか、県全体について今の所イソタケルにまつわる伝承がまるで伺えない。これの意味するものは何かと問われると、確(しか)たる解答に苦しむが、こういうことは言えるかもしれない。
須佐の地にスサノオを頂く集団が渡来してきたのは、「スサ(ノ)オなるイソタケル」の上部スサ(ノ)オが遊離独行した後、あるいは本体のイソタケルが忘却された後のこと、であったかもしれない。要するに、須佐の渡来びとは、五十猛の渡来びとより遥かに新しかった「今来(いまき)」の部類だったのではあるまいか。
それと今ひとつ、朝鮮神である「スサ(ノ)オ」号の伝来は、イソタケルノカミ示現より遥かに古かった節(ふし)がある。水野祐博士は、仁徳天皇の諱(いみな)「大鷦鷯(オオサザキ)」や、武烈天皇の「小泊瀬椎鷦鷯(オハツセノワカサザキ)」の「サザキ」は、「スサ(ノ)オ」と関連があるという(井上光貞著、中公文庫「日本の歴史(一)」376頁)。となればイソタケルとは没交渉に、「スサ(ノ)オ信仰」が伝わっている可能性もある。
                     
                    (五十猛歴史研究会会員、みついあつし)

再びスサノオとイソタケル

島根日日新聞に連載されておりました 三井淳会員の「五十猛神(いそたけるのかみ)の真相に迫る」が掲載中止になりました。
五十猛歴史研究会において、テキスト起こし&校正の作業が可能となりましたので、こちらに掲載します。

なお、バックナンバーは、資料室>その他の資料でご覧ください。



五十猛神(いそたけるのかみ)の真相に迫る 12
再びスサノオとイソタケル

             三井 淳

 イソタケルはスサノオの子というより、寧ろ分身としての性質が強いということを、専ら平田篤胤の解析に依拠して述べてきたが、これとは全く別の観点から、スサノオとイソタケルの関係を捉えられないだろうか。
 スサノオは本来「スサオ」なのであって、それは新羅二代王南解(ナムヘ)の王号「次次雄(チャチャウン)」の一方言「ススウ、ススン」に通じるという説が江戸時代からあり、現在でも有力な解釈の一つである。「ススウ」の原義は「巫(ふ・かんなぎ)」であって、これは神をおろす、神の意志を伝える人のことである。つまり神に一番近い所にいるのだから一番偉い、従ってそれが人王なのだという、祭政一致の時代の、族長というものに対する素朴な尊敬心に根差している訳だ。
 「ススウ」はそれ自体が尊敬語なのであって、子とされるイソタケルが「伊西(イソ)の勇者、王」という現実の地名を負うているのに対し、父としては余りに不釣り合いである。しかしここで発想を全く変え、スサ(ノ)オをイソタケルの修飾語と考えてみてはどうか。「父スサ(ノ)オ、子イソタケル」の縦の関係は、本来は「スサ(ノ)オたるイソタケル」という一体のものではなかったか。その意味するところは、「巫たるイソタケル」「祭政を行う、王たるイソタケル」、極言すれば、「聖なるイソタケル」という言祝(ことほぎ)ではなかったのではないか。通常スサノオの事績とされる伝承は、全てこれイソタケルにまつわるものだったのであり、スサノオ伝説・神話の確立とは、イソタケルの忘却、あるいは冠(かんむり)修飾語であった「スサノオ」の遊離独行ということになろう。
 修飾語の独り歩きの例に、特殊訓みあるいは新造字の確立が挙げられよう。例えば、「飛ぶ鳥の明日香(とぶとりのあすか)」という慣用句から「飛鳥(あすか)」という訓みが生まれ、「日の下の草処(ひのもとのくさか)」から、人名としての「日下(くさか)の字が作られるなどなどである。
 残念ながら、「素戔嗚」と書いて「イソタケル」などという訓みは成立しなかったが、とにもかくにも、イソタケルという神は、人口(ひとくち)に膾炙(かいしゃ)するほど浸透しなかったのだろう。

(五十猛歴史研究会会員、みついあつし)

神々の足跡を訪ねてⅧ 企画中止のお知らせ

神々の足跡を訪ねてⅧ 伊太木曾神社~伊勢神宮プランとして企画をすすめておりましたが、企画日程では、神宮会館の宿泊予約が不能でした。
残念ですが、この企画は再度練り直しとしますので、ご了承ください。

理由
企画しておりました11月21日~22日の日程の間、神宮会館弓道場において毎年伊勢神宮奉納弓道大会が開催されており、全館予約済みとなっていることが判明したため

秋の行事のご案内

五十猛歴史研究会 秋の行事のご案内

五十猛歴史研究会秋の行事予定をお知らせします。
会員の皆様には、出席いただきますようご案内いたします。

・神話のまち五十猛歴史散歩
10月25日(土)9:30~
五十猛まちづくりセンター

・五十猛町文化祭
11月9日(日)9:30~14:00
五十猛まちづくりセンター
準備:8日 13:00~
撤収:9日 14:00~

・ 川島芙美子氏講演
12月14日(日) 14:00~

詳細は、事務局長へ問い合わせください。

神話をめぐる旅のご案内

三江線で行く 秋と神話をめぐる旅

平成26年11月8日(土)~9日(日)

期  日  11月8日(土)~9日(日)
主な内容  三江線に乗り,沿線の秋の景色を楽しみます。(ガイドによる説明付き)バスで三瓶山を周遊し,秋の放牧の風景等を鑑賞します。

夜は,地元「多根神楽団」の公演を楽しみます。
2日目は,五十猛地区神話めぐりをします。(地元ガイドによる説明付き)

※広島県の山間部では,昔からワニ(サメ)を食べる習慣がありますが,そのワニは大田市の五十猛の港から運ばれていたそうです。五十猛地区はまた,様々な神話の舞台でもあります。
※三江線以外の移動は,交流の家のバスで行います。

会  場  国立三瓶青少年交流の家・大田市五十猛地区

対  象    三次市・庄原市・安芸高田市の小学生とその保護者(幼児・中学生の参加も可)

募集人員   50名程度

参加費   小学生1,875円  中学生以上1,905円  未就学児1,565円 三歳以下の幼児100円

※三江線の運賃(三次~浜原 往復) 大人1,590円 子ども790円

申込締切  10月17日(金) 17時必着