父の幻影
作 中村ちづこ
| 熱帯夜は、今日で何日になるだろう。 隣家の窓はみな閉ざされており、クーラーのファンが回る音だけが、鈍いうなり声を運んでくる。 家族は皆寝静まったが、千春はこの夜もなかなか眠りにつくことができなかった。 寝つきが悪い上に、朝の目覚めもよくなかった。明日も仕事を控えているので、早く眠らねばと、焦れば焦るほど眠りは遠のいていった。 眠れない夜、いつの頃からだろう。 千春の枕辺に、はるか遠い日に亡くなった父が顕れるようになった。 千春には、父、洋平の記憶は、掌の中に収まるほどしかなかった。その一握りの記憶さえ、確かな形を描けなかった。 僅かな記憶を手繰り寄せようとする時、洋平はいつも深い霧の立ちこめる風景の中から顕れてくる。 朝霧だろうか、夕霧だろうか。 濃い霧は、千春から洋平をさえぎろうとするかのように、その輪郭さえも与えてはくれない。 微かに浮かぶ洋平のシルエットは、上背があり体が心なしか前かがみである。 霧が深くて表情を窺い知ることは出来ないが、千春にはなぜか洋平の姿が寂しげで、哀しげでならない。 故人は遺された者の裡に生きると言うが、四十年も前、千春がまだ十歳にも満たないうちに亡くなった洋平が、今なお気がかりでならない。 千春が姉のように慕う美穂とは、折に触れ洋平のことを話すことがある。 「あなたのお父さんは幸せだよ。あなたがそんなに慕っているのだもの。あの世できっと喜んでいるよ」 美穂の言葉はすんなり心に落ちてくる。彼女も千春とよく似た原風景を持っているので、彼女と話せば気持ちが楽になる。それでも千春は、長い年月、洋平を胸奥深くに鎮めていたことが悔やまれてならない。 あるいは洋平は、晩年に生まれた一人娘が愛しくて、千春の胸奥深くで、じっと息を潜めていたのかもしれない。 はるか遠い日の記憶は、どれをとっても暗い風景に繋がっていた。 千春が憶えている、洋平の晩年。 昭和三十年代前半は、終戦の傷跡が癒えず、日本全体が貧しさに喘いでいた時代でもあった。暮らしはひときわ貧しかった。しかし、洋平のつらさは貧しさだけでなかったことも、千春は覗いてしまった。 洋平は、体がボロボロになるまで働いた。それでも暮らしは楽にならなかった。 洋平を想うとき、千春の胸は塞がれる。 「この子を先に医者に診せねばな」 風邪をこじらせた千春を病院に連れて行ったが、自分は医者にかからなかった。黒い便が出ると洩らし、腹部を抑えていた姿がふっと顕れた。 こうした記憶の断片が、不意に浮上してくる。 昏い風景の記憶は錯覚だったのかもしれない。そう思いたかった。 洋平の記憶が、暖色の明るい色彩に彩られているならば、千春はこれほど洋平を恋い慕うこともなかったであろう。 千春には、楽しげに笑う父の記憶がなかった。 夢でもいい、快活に笑う父の顔を見てみたい。 娘にとって父親は、聖域に存在する最も恋しい異性である。 千春は、眠れない床の中で、淡い洋平の記憶をしきりに手繰り寄せようとしていた。 |
| 昨夜美穂から電話があった。 「大脇さんのことが気にかかってしかたがないの。病院に行きたいの、でも私ひとりじゃ息が詰まりそう。あなた忙しいでしょうけど、お見舞い、一緒に行ってくれない?」 千春は彼女から電話を受けるたび、今度は大脇にどんな異変がおきたのかとびくびくする。 「私も同じ気持ちよ。この前訪れた時、カーテンを下ろして薄暗いベッドから見上げてくるの。すべてを拒絶するような眼だった。お花だけ生けて、逃げるように帰ってきたの」 「あんないい人が、かわいそうでかわいそうで・・・。どんな思いで生きているかと思うと。何もかも告知するなんて、酷すぎるよね」 電話の向こうで美穂は声を潤ませている。 「入院した時、私にも憶えがあるけど、具合が悪いと元気な人を見るだけでつらかった。まして大脇さんは・・・、私たちが健康な身をさらすだけで罪かもしれない」 「そんなことを言っても、いても立ってもおれないの」 「私も同じよ」 地下鉄を出て、病院に向かう道はサウナの中を歩いているようだった。 ビルを横切るたび、排気口から吐き出される、かび臭い風にぶつかる。 全身に流れる汗は、拭いようがなかった。 じりじり照りつける太陽は、道路さえ溶かしかねない。アスファルトには、所々、自動車の轍が残り、千春はそれに躓いて転びそうになった。 この身がろうそくのように溶けそう・・・、いっそ溶けて消えてしまえるものならば。 不意によぎった感情を慌てて打ち消した。疲れすぎているのだと。 末期がんが大脇を苦しめている。 がん細胞が十二指腸を塞いでから二ヶ月近い。今は、点滴の力だけで生きている。 「人は生き急ぎしなくちゃいけない時もある」 千春は、大脇がそう言うのを、胸の塞がる思いで聞いたことがある。病状がここまで悪化するまでは、残された時間をはかるように、精力的に生きてきた。 千春や美穂の属する文芸の会の、責任をしっかり遂行し、自らも作品を次々と書いてきた。 人の生き方、人生の終え方を、身を持って示してくれた人である。 美穂は病院の玄関ホールに、先に来ていた。 「あなたが先にドアを開けてね」 美穂に言われて千春は、恐る恐る病室の扉を開けた。 「やあ、今日も外はずいぶん暑いだろう。あれっ、二人お揃いで」 この前とは別人のような表情があらわれた。 美穂と千春は、彼が今日までどんな葛藤を繰り返したかと思うと、容易に言葉が出なかった。 「苗村さん、この前の花、元気だろ」 「この暑さで、生き生きしてる。水、よく変えてくださったのね」 「そうだよ。紫って、いいよな」 「もっと明るい色がよかったかなと・・・。ついりんどうが好きなものだから買ってしまって」 「いやいや、紫は雅で高貴な色。ぼく好きだよ」 三人は病気の話にはいっさい触れなかった。大脇がもっと元気だった頃のように、楽しく雑談の花を咲かせた。 気が付くと、千春が話題の中心にいた。 千春は、母志津が来てからと言うもの、気持ちの鎮まらない日が多くなった。 志津の裁判をめぐって、家の中がぎくしゃくしていた。 「あら、私こんなことまで喋ってしまって」 千春は反省したが、彼女はよじれた糸をするする解くように、今日に至るまでのことを、生育歴を含め、洗いざらし話していた。そこが病室であり、大脇が重い病の身であることをすっかり忘れていた。 「そんなこと、いいんだよ。人の話を聞きだすのが僕の仕事だから」 今日の大脇は、話しながら何度も磊落に笑った。頬骨が浮き出て、顎骨が以前よりさらに鋭く尖っていたが、彼らしい楽しそうな笑顔だった。 大脇の姿に洋平を重ねていることに、千春が気付いたのはもっと後のことだった。 |
| 「これなら口にできるでしょ」 美穂が、アイスクリームを手にしていた。 「病室からいなくなったのも気付かなかったわ」 「あなたたち、夢中で話してたもの」 美穂は、何事も前面に出る人ではなく、さりとて、周りにとっていなくては困る黒子的な存在の人である。 大脇は手渡されたアイスクリームを嬉しそうに受け取った。 「食べ物を口にするのはずいぶん久しぶりだな」 食べることさえ阻害されている人を見て、千春はここへ来る途中に浮かんだ思いが恥ずかしくなった。 「お父さんが呼んでいるんだよ。出雲への旅、行ってくるといいよ。きっと、気持ちの整理ができるよ。これ美味い、食べ物を口にすることがこんな幸せなことだったとは、な」 大脇は子供のように、アイスクリームをぺろぺろと舐めた。 「母も何も憶えていなくて、分かるのは父が生まれた所番地だけ。身内もとうの昔に途絶えているし・・・。」 千春は、洋平の生まれ故郷に一度も行ったことがなかった。 出雲路を訪ねたことはあっても、洋平の故郷へは、足を向けようとしなかった。 「出雲はなあ、ええところじゃ。だがな、錦を飾るまでは帰れん」 洋平からこんな言葉を聞いたような気がする。 どんなに洋平は生まれ故郷に帰りたかっただろう。しかし、思いを遂げることもなく亡くなった。その後、志津がすぐ再婚したので、千春は洋平のことは、胸の中に静かに埋め込んだままだった。 「今までにも、何度も行こうとしたの。でも、訪ねる勇気がなくて。親の生まれた場所なのに・・・」 彼の口の周りが、アイスクリームで白くなっている。 「その地に立つ、それだけでお父さんは、お歓びになると思うよ。ぜったい行くべき。それを、苗村さんが書くんだよ。お父上の手紙、あれは太宰の文体だよ。書いて残さなくては何もかも消えてしまう」 書き残す、それは、病気になってからの、大脇の思いでもあろう。 「父は亡くなるまでベッドで本を読んでいた。でも、太宰の文体だなんて、身にあまる言葉だわ。あの世で感激していることでしょう」 大脇の批評眼には、仲間の誰もが一目おいているが、千春は彼の言葉がひときわ嬉しかった。 洋平が終焉を迎える頃の光景が、うっすら顕れてきた。 記憶のフィルムが巻きもどされたように、眼鏡をかけた洋平が書物と向き合っていた姿が浮かんできた。 「旅は、ただそこに行って風景に触れるだけではない。その場所で自身と向き合うこと。出雲へ行くことは、苗村さん自身の、内面の旅だよ」 「そうね、それで祖先のお墓でも見つかれば、この上なく嬉しいのだけど」 「形じゃないよ。形がなくてもその地で合掌する。それでいいじゃないか」 「大切なものは心では見えない、って言うものね」 大脇の口から胃を素通りしただけのアイスクリームが、すべて胃に通した管から廃液瓶に白く流れ出ていた。 こんな楽しげな大脇を見たのは、ずいぶん暫くぶりのことだった。 「それじゃ・・・私」 どうしても用がある美穂が、先に腰を浮かせた。千春も一緒に腰を上げた。 「僕、そこまで送っていくよ」 大脇は、点滴台を引いて階段下り口まで二人を見送ると言い出だした。制止を受け入れるような気性ではないことは、二人ともよく心得ていた。 「島根から帰ったら、すぐ来るからね」 きっと生きていて、と言う言葉を千春は飲み込んだ。 「苗村さんの本、今日中に読んで、明日から評論書くよ」 「でも無理しないでね」 「書くことも運動のうちだよ」 そう言って、大脇は寂しげに笑った。この時の、小さく笑った顔が千春の胸にいつまでも澱んで離れない。 階段の下から見上げると、大脇はまだこちらを見ていた。 彼の大好きな風が、もしそこを吹き抜けるなら、すぐさま飛ばされてしまいそうだと、千春は病衣から覗く細い足を見ていた。 |
| 大脇を病院に見舞っての帰途、千春はポケットタイプの時刻表を買い求めた。 洋平も旧国鉄の時刻表を、いつも持ち歩いていた。 久しぶりに時刻表を手にすると、遠い日が手元に近づいてくるような気がした。 洋平は自宅にいることがなく、住み込みで働いていた。月にいちど生活費を持って家族のもとに帰ってきた。擦り切れたカバンには、旧国鉄の時刻表が覗いていた。 少しずつだが、洋平を思い出してくる。 名古屋始発の下り中津川行きは、空席が目立った。千春は時刻表を開き、島根県大田市までのアクセスの仕方を探した。ページをめくる千春の隣で、若い女性が、携帯電話のメールを打っている。 時刻表と、インターネット。 遠い過去の時間と、現在の時間とが、千春の頭の中で慌しく交叉する。 簡易地図を開くと、島根県五十猛町は、そんなに遠い場所ではなかった。 できるものなら新幹線を使わずに、洋平が辿ったであろう山陰線を利用したかった。 名古屋から夜行で発って、朝出雲に着く山陰線まわりの列車を探した。ページを折り曲げ、何度も繰り返し開いてその経路を探した。 そうしている時間が、千春には久しぶりに得た楽しい時間だった。 仕事の段取りもついて、解かれた時間を見つけた安らぎがあった。 三階は通し風にすると、思いのほか涼しい風が吹き渡った。 立秋がとうに過ぎたことにも、千春は疎くなっていた。忙しいと言う文字は、心が亡ぶと書くが、亡びた心は混乱をひきおこしていたのだろうか。 志津が家に来てより、眠れない夜が続いた。志津が忘れていた痛みを持ってきたような気がしていた。 千春はもう少し夜気に触れていたくて、ベランダに出た。 寝静まった街の、ほんのりとしたあかりが、蛍火のように浮いていた。 はるか向こうに、JR名古屋駅のツインタワーが小さく見える。あの下で、大脇が最期のいのちを生きている。 千春は、ツインタワーが見える日は、彼が元気でいると、今までは聳え立つタワーの姿をひとつの指標にしてきた。見えない日があると、心が騒いだ。 どれぐらい夜景に眼を移していただろう。やがて肌寒さを覚えて部屋に戻った。 良夫は、いつもどおり大の字になって高鼾をかいていた。 何事にも頓着することなく、千春とは対照的に寝転んだらすぐに眠れる性質である。朝は目覚ましがなくても決まった時間に目覚め、羨ましいほど何事にも拘らない。そんな夫に千春はずいぶん救われもするが、気持ちを分かち合うことができず、いくつかの摩擦を繰り返してきた。 今回の旅を切り出した時も、 「行きたかったら、行ってこりゃええだろ。そやけど、今頃、何にもないとこへ、いったい何しに行くんだ。それに、化石みたいな古い話やないか」 反対されるよりよかった。 良夫の部屋の冷房を止め、窓を少し開けた。良夫の高鼾を避け、千春は階下降りた。 |
| 出発の朝、大粒の雨が落ちはじめていた。 「昨日までええ天気やったのにな。ひどう降らんとええがな」 志津は心配そうに空を見上げた。 田舎にいた頃に比べひとまわり小さくなった志津は、久しぶりに母親らしい顔を覗かせた。こちらに来てからというもの、子供還りしたように千春の手をわずらわせた。依存心が強く、自立させようとする千春とはずいぶんぶつかりもした。 「涼しさを運んでくる恵みの雨やわ。鉢植えの花、水撒きも忘れんようにな」 志津と話す時には、どうしても育った伊賀弁が出る。 仕事を頼むと志津はことごとく反発した。 定一と二人で気楽に暮らしてきた分、志津にもわがままが出た。 「おまえに看てもらわんでも、和男でも菊夫でも看てくれるわ」 志津は義理の息子たちの名をあげた。結局、彼らに追い出された形であることに志津もようやく気がついた。志津は言いたいことを吐くだけ吐いて忘れているが、千春には志津の言葉が楔のように刺さっている。 「先祖様のお墓、見つかったらええのにな」 この四十年、定一の先祖を守り続けてきた志津が、珍しく洋平の祖先を口にしたことに千春は違和感を覚えた。 「母ちゃん、そう言えば昔は父ちゃんと夫婦やったな。父ちゃんの方は祀ってくれんで川島家ばかり尽くしてきて、あげくに追い出されて」 千春の裡を占めている志津への思いであった。しかし、今朝はいつになく千春にも優しい声が出た。 「火の元にはくれぐれも気つけてな。冷蔵庫にある物で、みんなのご飯たのむよ」 志津も、今では留守家族のまかないを、何とか託せるまでになった。 留守をする間の食料を、冷凍庫に買い込んである。 「冷凍物は、冷蔵庫の中で解凍するんよ」 「分かってるがな」 「おーい、まだか」 良夫は駅まで送ると言い、玄関先に車をつけていた。 「何しろ女の一人旅だで気つけなあかんぞ、これ持って行けよ」 運転しながら良夫は、胸ポケットから携帯電話をとり出した。千春は携帯電話を持っていなかった。 「公衆電話を使うからええわ」 「そう言わんと、あると便利や。持ってけよ」 「ほな借りて行こうか。留守、頼んだよ」 「何かあったら連絡しろよ」 良夫は千春を駅前で降ろし、会社に向かった。 ホームで電車を待ちながら、千春は数日前の出来事を思い出した。 志津のことが発端となり、良夫とたびたび口論するようになった。 「あなたも母も、私のトラウマを抉り出す存在なんやわ」 千春は、ほてった感情のはけ口を、良夫にそのまま向けてしまった。 「疲れているのにええかげんにしとけよ」 千春は、受け手の良夫にとっては刃物にもなりうる言葉を言ってしまった。言いすぎたとすぐに気付いたが、彼はそれ以上何も言わなかった。 よきにつけ悪しきにつけ、良夫には千春の思いは一方通行であった。半ば形骸化した夫婦だと寂しく感じることもあるが、良夫の性格で夫婦の形が収まっていた。 |
| 勤めのある千春に、許された旅の時間はそう多くなかった。 山陰線まわりを諦め、新幹線と伯備線を使うルートをとった。 平日の早朝、新幹線「のぞみ」は比較的空いていた。 GパンとTシャツ、背中には登山用のリュック。出張族の背広が多い中、通路を歩く千春の姿はよく目立った。指定席に相客はなく、千春は窓際に腰を下ろした。 登山用のリュックには、着換えのほか、旅の必要品が詰め込んである。 長い年月、この日のためにと千春が大切に持っていた物である。 千春はまず、リュックから洋平の写真を取り出した。たった一枚残った写真は、黄茶色に変色していた。彼女は暫く写真と向き合っていた。ちょうど洋平が、今の千春ぐらいの歳であろうか。免許サイズの小さな写真だが、その顔は血を分けた親子と証明するに十分よく似ていた。千春は自分がまちがいなく、洋平の子供であると、当たり前のことが嬉しかった。彼女は志津よりも、洋平の遺伝子を多く引き継いでいることが嬉しい。 その分、志津に抗うものも多かった。 写真をTシャツの胸ポケットに納めた。千春は洋平が愛した風景をゆっくり見せてやりたいと思っていた。 他に、洋平が愛用したキセルと小袋。小袋は志津の母親が縫った物で、何に使っていたのか定かではない。縁がすっかり擦り切れている。 志津の母親、その人は千春の祖母である。 晩年に自決している。 セピア色に変色した洋平の遺書。それは祖母に向けて書かれたものであった。 これらと一緒に、千春が書いた本などを詰め込んだ。 出発前、大田市役所へインターネットで問い合わせた。手がかりは、本籍の所番地だけである。役所からは感触のいい返信メールが届き、心細さを多少なりとも払拭できた。 千春は名古屋駅で赤福餅を二箱買った。 渡す相手があるわけではなかったが、気がつくとなぜか買っていた。土産物を渡せる親戚があれば、そんな願いが千春に潜んでいた。 雨足が激しくなっていた。 雨に煙った風景がどこまでも続き、車窓の風景をおぼろにする。今どこを走っているのか定かではない。 車内は冷房がほどよく効いており、千春は静かに眼を閉じた。 眠さはなく、頭の中が活発に動いている。 電車に揺られていると、容易にタイムトンネルに入り込むことができた。 時間に追われた暮らしの中では、様々な記憶も意識の下に眠らせたままだった。けれども今、旅という日常から離れた中で、タイムカプセルを開くに似た時間が経過している。 かつて封じ込めていたものも、今なら開くことが出来そうだった。 千春は時間があれば本当は日本海に沿って走ってみたいと思った。今回はあの時と違って、もっと別の形で自分を見ることが出来るはずだから。 あの冬の日、千春は洋平の故郷近くまで行った。 洋平が千春を呼び寄せているような気がして、無性に彼を追いたくなっていた。 その時は山陰線を使った。 まだ蒸気機関車だったのだろうか。京都駅は、夜発ったのだろうか。 その記憶は、海の色や鳴き砂の記憶ほど定かではなかった。 千春は、車窓から切り立った海岸線を追い続けた。 碧空を映した海は、どこまでも哀しいほどに碧かった。あんなに澄みわたった海の色は、あの日以来見たことがなかった。 空と同じ色をしていたはずの海水が、岸辺で白く泡立ち、北風の中を花びらのように舞い散っていった。 |
| 何かに引き寄せられ、千春は砂浜まで夢中で駆けてきた。 短いスカートと薄いコートだけだったが、彼女に冷たさはなかった。 荒れた海を歩いていると、風や波の音にまみれて、きゅっきゅっと人が泣いているような音がした。今まで聞いたことのない不思議な音色だった。立ち止まり耳を澄ますと、不思議な音色は聞こえなくなった。彼女が歩き出すと音は一緒についてきた。 音は足元から聞こえてくるようだった。千春は腹這いになり、砂浜に耳を近づけた。 何にも聞こえない。彼女を誘い込んでくるような哀しげな音はもう聞こえなかった。 「千春」 ふと呼びかける声がして、顔を上げるとそこに洋平が立っていた。 「父ちゃん、なんでここに?」 「おまえこそ。母ちゃんが泣くからな。母ちゃんを泣かせちゃいかん。早くお帰り」 洋平の大きな手が、強い力で千春を追い返した。 「うん、寒いで帰るわ」 千春はにわかに冷たさを感じて、身を翻し急いで海岸を駆けはじめた。 走るリズムに合わせて不思議な音はついてきた。その音色は、先ほどのように哀しくは聞こえなかった。 後年それが、鳴り砂であることを知った。 何か目に見えない力が救ってくれたのだと、千春はその冬の日におきたことを思い出すことがある。その後も、洋平の守護霊に守られていると思うことは何度かあった。 洋平は五十猛町をいくつの歳に発ったのだろう、それも分からない。 千春のリュックには、一通の戸籍が入っている。ずいぶん古い紙で、邇摩郡五十猛村が訂正され大田市五十猛町となっている。結婚時に取り寄せた戸籍謄本を、彼女は保管しておいた。結婚では本籍を変えるしかなかったが、志津が定一と入籍した時も、千春は洋平の氏、中村を通してきた。通すというような確固とした信念が、幼い彼女にあったわけではなかった。しかし、今では定一の氏にならなくてよかったと思っている。 上方に行くまでの洋平は、それまでどんな暮らしをしていたのだろう。 「父ちゃんの身内はな、大正時代に流行ったスペイン風邪で皆死に絶えたらしいで。よちよち歩きの甥っ子が残らはってな、父ちゃんはその子の世話に追われて、婚期を逃した言うてはった。その子は裕福な商人にもらわれて行かはって、その後どうなったか分からへんそうや」 いつ頃だろう。洋平のことを、おとぎ話を聞くように志津から聞いた憶えがあった。それも今では確かめようもない古い話であった。 今の志津からは、何も教えてもらうことはできない。何を聞いても、遠い昔のことやで、と答えるばかりだった。 志津は洋平の上に、四十年間連れ添った定一を上書きしてしまっている。 |
| 雨滴が車窓を激しく叩きつけてくる。雨は名古屋を出た頃よりさらに激しくなっているようだ。どのあたりを走っているのだろう。 雨は眼前の風景を遮断する。 千春も洋平のことをほとんど憶えていないはずだった。それなのに、この場面だけは、鮮やかに、つい今しがた起きたことのように甦ってくる。 旅の雨は、千春の記憶を容易に揺り起こし、記憶を遡ることを助ける。 定一の家は、藁葺き屋根の古い家である。 そこには大きな靴脱ぎ石があった。 竹やぶの陰になる暗い家で、この家は何かの怨念に包まれているようだと、千春は感じていた。少女漫画を読みふけり、架空の世界を思い描く子供であった。 定一には統合失調症を病む妻と、病み衰えた老親たちがいた。食べ盛りの子供がいて、家の中は凄まじく荒れ、彼は、ほとほと暮らしに疲れていた。 病む妻は、着物の裾をふり乱し村中を歩いた。 「お母ちゃんなんか、死んでしまえ」 定一の娘は、病む母親を足蹴にした。 「おっちゃん」と呼ぶ定一の苦労が、千春にも伝わった。 志津は定一の母親に請われ、農作業や家事などを手伝うようになっていた。その代償として米や野菜を譲り受け、千春の家計も助けられた。 本屋の離れを借りて、志津たち母子は暮らしていた。 志津は一日の大半、定一の家で働いた。 洋平は、勤めていた会社をリストラされた後、住み込みで働いていた。五十も半ばを過ぎた彼には、工事現場などしか働く場所がなかった。 「学校を出ていたらなあ」 洋平の呟きを千春は何回か聞いたことがある。 この日はお金を持って、洋平が帰ってくると志津から聞いていた。一ヶ月に一度、生活費を渡すため洋平が帰って来る。千春には一番嬉しい日であった。 洋平に会えると、友達の誘いを断り、藁葺き屋根の古い家に急ぎ足で帰ってきた。ふだんなら早く帰りたくない家であった。 「ただいまあ」 学校から帰った千春の前に、靴脱ぎ石にしゃがみこみ、大粒の涙をこぼす洋平の姿がとびこんだ。 洋平は一ヶ月ぶり、喜び勇んで家族のもとに帰ってきたはずであった。 男が泣くことにどんな理由があるのか、そんなことはまだ十にも満たない千春には、分からなかった。ただ不本意な出来事を知った涙、そのような気がした。 洋平は寡黙で、ふだんは感情を外に出すような人ではなかった。律義者で、堅物で、ずるいことを見逃せない。洋平を憶えていない千春が、彼の人柄をたやすく語れるのは、彼女は自分が洋平の遺伝子を多く引き継いでいると思うからであった。 千春は志津の娘であるが、自分は本当にこの母親から生まれたのかと疑うほど、似ていない部分が多かった。 |
| 「腹が張ってのう、なんでこんな黒い便が出るんじゃろ。若い者に混ざって仕事をするのが、だんだんこの頃ではきつうなってのう」 洋平が体の異変を訴え始めた頃には、食べる量が少なくなり外で働く仕事にしては、白く透けた顔になっていた。消化管からの出血が続き、貧血が進んでいたからだった。 それまでの洋平は、家族の前で弱音を吐くようなことはなかった。 もともと痩せていた体は、いっそう痩せが進み、腹部だけが不自然に膨らんでいた。 おそらく腹水が貯まっていたのであろう。 「父ちゃん、遊ぼ」 「体のあんばいがようなったら、また遊んでやるからな」 以前なら、千春が誘いかけると嬉しそうだった。 童話を読んでくれたり、外で遊んでくれたりした洋平は、束の間の休日も畳に伏してばかりいた。 「ほなら父ちゃん、仕事に行ったらあかん。家で寝てなあかんわ」 「そやけどな、仕事を休むわけにはいかんでのう」 医者にもかからず、翌日には飯場に戻っていった。 一日休むと収入が減るだけではなく、仕事を失うことを恐れたのであろう。還暦を過ぎた病みがちな体ではすぐ首になる。 家族を養うために、洋平は仕事を失うわけにはいかなかった。 ここで志津がいる場面が浮かんでこない。 橋や道路を築く仕事は、病気でなくとも洋平の体には過酷過ぎた。 洋平は自身の命を案じるよりも、家族を生かすことしか考えられなかったのだろう。 志津は洋平の変化に気付かなかったのだろうか。無理をしてでも病院にかかるようにと、志津は洋平を促さなかったのだろうか。 志津は歳の離れた洋平から心を離し、定一と男女の関係になっていた。 それが千春に分かったのは、ずっと後年になってのことだった。 藁葺き屋根の古い家。その上がりかまちの靴脱ぎ石の上で、男泣きした洋平の姿は、それから四十年余を経た今も、千春の裡から消えることがない。 「まもなく岡山、在来線の案内を致します。伯備線スーパーやくも5号は・・・」 車内アナウンスが流れ、千春は荷台からリュックを下ろし出口に向かった。 乗換えで慌しく動く時間は、否応なく千春を現在の時間に引き戻した。 洋平を思い出すのはつらい作業だが、千春は大好きな父親の、人生の跡を辿らずにはおれなかった。 千春は駅構内の売店で、朝刊を買い求めた。新聞に眼を通さないと落ち行かない。今朝は新聞を見ることなく家を出てきた。 |
| 伯備線スーパーやくも5号は、ひたすら山峡を縫うように走っている。 車窓に眼を遊ばせようとしたが、低くたれこめた雲が山容を覆い隠してしまった。 雨足は先ほどよりもずっと優しくなっていた。 千春は明日、洋平の生まれ育った土地に立とうとしている。 洋平から聞いた三瓶山という名の響きをよく憶えている。 彼はどれほど熱い郷愁を抱きながらこの山を、幼い千春に語ったであろう。 「三瓶山はのう・・・」 故郷を語る洋平は実に嬉しそうで、千春と同じ眼の高さで故郷を語った。 彼の誇らしげな顔だけは浮かんでくるが、詳細な風景は記憶に留まってはいない。彼は故郷に連れて行ってやることの出来ない娘に、美しい故郷を語りたかったのであろう。美しい故郷、そのシンボルとしての三瓶山だけが千春の記憶に留まっている。 記憶を遡る時、もうひとつ、彼の眼がいきいきと光り輝いていた場面が浮かんでくる。 その頃、洋平は腰を痛め、仕事に行けなかった。 「千春が学校に上がるからのう、ランドセルを買ってやらねば、こうもしとれん。仕事に行かねばな」 這いながらトイレに行っていた場面が戻って来る。 千春が小学校に上がる前、その頃住んでいた家は、四方を土壁に囲まれて、窓がない小さな部屋だった。 薄暗い部屋は、昼間でも電灯を点さねばならなかった。わずかな光が部屋に差し込んでくる時、光が一筋の線となって走った。チンダル現象、その差し入る光線に、ごく小さな粒子が動くのが、千春には万華鏡の動きを追うように面白かった。 洋平が、松下幸之助を語る時、ひときわ彼の眼は光り輝いた。 「あの人はのう、丁稚奉公から始まったんじゃがのう、二股ソケットを発明しての、あの人の人生が変わったんじゃ。それがこれじゃ」 彼は部屋にある二股ソケットを指さした。 洋平は松下幸之助に、自らの人生の裏と表を重ねていたに違いない。彼は見果てぬ夢を、そっと娘に吐露したかったのではないだろうか。 少年の日の父を、抱きかかえたであろう故郷を見てみたい。青年の日の、彼が見たもの、触れたもの、それを感じたかった。 このまま空が晴れていくようにと願った。 |
| 洋平がもし生きていれば、あれもしたいこれもしたい、そう思うことばかりだった。今の千春ならば、あれもこれもできる。 写真の前に手を合わす時、それが叶わぬことを思い知る。 墓石に、彼の好きだったお酒や饅頭を供える時、生きていればどんなに喜ぶだろう。そう思うと、志津がそれを甘受していることが、千春は悔しかった。志津は飽食の時代、肥えすぎを心配しなければならないほど欲しいものは口にしている。 洋平の血を引く千春の子供たちからは、「お婆ちゃん」と慕われ愛されている。 美味しい物ひとつも食べられずに、苦労だけして亡くなった洋平。 志津はある一時期、それは洋平が亡くなった直後の頃であるが、新興宗教に巻き込まれ、洋平の遺骨をその新興宗教に預けてしまった。 洋平の遺骨は紛失してしまい、どこにあるか分からない。 二十代の半ば、働き始めた千春にようやく墓を築ける時がきた。この時、千春は志津が洋平の遺骨を紛失したことを知った。 志津の生き方に、はっきりと憤りを感じた最初の出来事だった。 列車は谷川沿いをうねりながら走り、車窓からは赤い泥土を含んだ濁流が見えた。 昨日からの雨で、川は水嵩を増していた。 赤い濁流のうねりは、千春の内面の動きに似ていた。 川の水は静かに流れ、澄み切っていたはずであった。その流れに、志津が、赤い泥土を含んだ土石流のように合流してきた。 風景は霧雨に隠れ、その全容を現わすことを拒絶しているようでもあった。 あたかもそれは、千春が記憶を遡ることを拒絶しているようでもあった。 記憶の淵を辿ろうとする千春の前に、小ぬか雨が乳白色のベールのように下がっていた。 粒状になった小さな雨滴が、車窓を濡らしてくる。 千春は先ほど買い求めた新聞に眼を移した。 深刻な不況下重病隠し通勤 呼吸することもままならない患者が診察にきた。命を維持する限界の状態である。聞けば、入院先を飛び出してきたとのこと。レントゲンでは肺全体に異常が見られ、外来治療は不可能だ。入院するよう説得したが聞き入れない。実は、以前リストラされ、やっとの思いで今の職を得たらしい。会社からはいつやめてもいいと言われており、職を失えば生きていけないと主張する。死んでもいいから外来で治療してくれと懇願した。 開業医が投稿した記事が、何気なく新聞を流し読みしていた千春を捉えた。 その患者さんが、遠い日の洋平に痛いほど重なってきて、心の置き場がなかった。もうひとりの洋平が、今この時代にもいる。 それは眼をそむけたくなるほどつらい記事だった。しかし、この旅では逃げてはいけない、千春はもう一度、自身に言い含めた。 |
| 白いベールのように降っていた雨は、いつしか上がっていた。 山間の風景は、まだ濃い霧の中にあったが、乳白色の霧は天空に向かって、慌しく駆けのぼっている。全容を捉えられまいとした風景が、ベールを脱ぐことの覚悟を決めたように千春には感じられた。 雨に隠れていた風景が、おもむろに姿をあらわし始めていた。 列車は、いくつもの鉄橋を渡りトンネルの闇を潜った。 霧の風景と交互に訪れるトンネルの闇。 闇が、封印を解こうとする千春の前に立ちはだかった。 思い出して何になる。 トンネルの闇は、千春が記憶を解くことを遮ろうとする。 裡から湧き起こってくるものの、その置き場所が彼女には必用であった。 遠い日の記憶を解くことは、千春の鎮魂となるであろう。 記憶を解こうとすることは、ひどく自虐的な段階を踏む行為でもあった。 大脇の前でするすると過去を解いたように、旅という非日常的な空間が、千春の裡にあるものを解放しようとする。 志津は洋平を、捨て石にした。 洋平は志津と一緒になり、千春を得たが、彼は志津の生き方につらい思いを重ねたであろう。洋平は志津とその連れ子の和男、二人を、いや千春を含め三人を食べさせていくために、捨て石となって働き通した。 身を粉にして働いた洋平に、何の福音がもたらされたであろう。 千春は父の涙を思い出すよりも、この旅では笑顔を捜したかった。幼くて、洋平には何一つできなかった。 車窓から実った稲穂が見え始めたかと思うと、やがて広い田園風景が広がってきた。 稲田には黄金色の稲が実り、畦道には鮮やかな曼珠沙華が咲いていた。 「米子。よなごー。まもなく米子に到着します」 のどかなアナウンスが流れたかと思うと、やがて鉄道唱歌が流れてきた。 古い曲は、古い時代を遡ろうとする千春にぴったり寄り添ってきた。 ――きーてきいっせいしんばしを、はやわがきしゃは、はなれたり 心の中で洋平と一緒に口ずさんだ。 暗かった空が少し明るくなり、雲間から青い空がのぞき出していた。 |
| 米子では、ほとんどの乗客が降りてしまい、斜め前の席に古老が一人座っているだけとなった。年の頃八十余、赤銅色に焼けた顔には、深い皺が刻まれていた。眼を閉じて、微かな鼾を洩らすその人に、千春は暫し見とれた。 深く刻まれた皺には、古老が生きた人生の、奥行きが表現されていた。喜びや悲しみ、すべての感情を、時という乗り物の上に乗せ、人間の持つ喜怒哀楽や愛憎、すべてを鎮めた顔であった。人間と言う芸術を見る感があった。 市井にひっそりと生きる人の姿は、野辺の花にふれたようなささやかな喜びを手渡してくれた。古老のようないい顔で、人生の終章を迎えられたらいいなと、千春は教えられたような気持ちになった。 列車の中は、千春が住んでいる街の混雑を思うと、異次元の感じすらした。 古老の姿が、ふと洋平と入れ変わる。 洋平と二人で故郷に向かって貸切り列車に乗っているような錯覚を覚える。彼が逝って四十年、時空を超越した空間が車両内には漂っていた。 やがて、広い宍道湖があらわれてきた。 周囲四十三キロメートルとアナウンスされた。 湖は鈍天の空模様を写し、にび色の漣を小さく揺らしていた。 思わず千春は、胸ポケットから洋平の写真を取り出した。 「父ちゃん、島根に戻ったで。くに(故郷)に帰ったんやで」 彼女が育った伊賀地方の言葉で語りかけた。洋平の墓は、伊賀地方の、小高い丘の上にある。 「千春、おおきにな」 洋平が語りかけてくれたような気がした。 「父ちゃん、父ちゃんはこの鉄道を通って上方へ上がったんやろ。それはいくつの時やったん? どんな夢を抱いてくに(故郷)をあとにしたん? 父ちゃんは、眼を輝かせて松下幸之助を語っていたもんな。 それからあと、私が生まれるまでの父ちゃんに、何があったん? 何して暮らしていたん? 何で夢が果たせなかったん? 」 千春には洋平から訊きたいことがいっぱいあった。しかし、写真の洋平は何も応えてくれなかった。 「父ちゃん、問い詰めてしもて、かんにんな」 彼女は湖が見える間、洋平の写真を車窓にかざし続けた。 「父ちゃん、宍道湖は十分見えたか? また他の場所へ行った時、一緒に見ような」 千春は洋平の写真を、再び胸ポケットに収めた。 出雲ではアナウンスを頼りに、浜田行きの一両車に乗り換えた。 |
| 千春はかつて、志津と定一を連れて同じ線を走った。 夫婦は出雲大社を熱心に信心しており、出雲を訪ねることが、生きる指針でもあった。 再婚した志津の暮らしに、千春もすっかり溶け込んでいた。定一を長い間、父と慕って生きてきた。 あの時、洋平のくに故郷、五十猛町を訪ねようとしなかったことが悔やまれる。日御碕までも足を運んだのに。あの時、行っておれば、その思いが大きく膨らんでいた。 過ぎた時を追いかけること、それは少しでも早いほうがいい。 電車に揺られていると、長い年月、洋平を裡深くに鎮めていた申し訳なさが拡がった。 黒っぽい群青色をした日本海が、目の前に広がっていた。海の色は、洋平の鬱積した思いを表しているように千春に映った。 志津と定一は洋平を裏切っていた。 定一は、この春に逝った。 千春は、定一が逝くまでそのことは知らなかった。 いや、知ろうとしなかったという方が正しいだろう。 千春が裡深くに、固く封印していた記憶。 定一の葬式で、千春は異父兄、和男と数年ぶりに会った。 「おっさんも、とうとう逝ったか」 いつになくしんみりとした和男の声が、耳に残っている。 和男は、洋平を親父と呼び、定一をおっさんと呼んだ。 彼は実の父親を知らない。彼を育てたのは洋平であった。洋平は、「和男を何とか一人前にして世に送り出さねば」、それが口癖だった。 言葉どおり、和男を世に送ってやれやれと思ったのか、洋平が逝ったのはその年だった。 「鶴の恩返し」で、鶴がわが羽をむしったごとく、洋平も体を酷使しながら和男を育てた。洋平の生き様を和男は、憶えているだろう。ならば、もっと洋平の思いを感じて生きたらどうかと、千春はこの異父兄に言いたかった。 和男の生き様は、律儀で実直だった洋平とは、対極にあった。 「おっ母は、親父が生きとるうちから、おっさんとできとったからな」 異父兄、和男の言葉は、千春の記憶が錯覚ではなかったと証明した。 和男がべらべらと語った話は、闇の中に葬りたい光景であった。 その光景は、四十数年を経てなお千春の脳裏から剥がれなかった。 「父ちゃんがかわいそうや・・・」 そう思った。それは、真っ黒に塗りつぶし、二度と再現したくないのに、苦しく甦ってくる記憶だった。 |
| 和男とは血を分けた兄妹とはいえ、志津という媒体があっての関わりだけで、希薄な交流しかない。彼は、子としての責任感を放棄していた。志津をひきとってからも、何の連絡もしてこない。 「兄さんとは関わりがない方がええと思え。看る力がないからうちで看るしかないやろ。それにしても菊夫たちも無責任なもんだわ」 良夫は、愚痴る千春の横からいつもそう言ってくる。 それは和男の過去の素行による。人のいい良夫は、和男の借金の肩代わりもしたことがある。 和男は年金暮らしの定一と志津夫婦から、お金をせびるような男であった。千春が仕送りしたお金の一部も、志津を素通りし和男に流れた。和男は、身不相応な生活をし、借金を重ねた。志津がやつれた面差しで言ったことがある。 「あんな子、死んでくれた方がどれだけいいか」 志津はそう言いながら、和男の作った借金を埋めていった。 「母ちゃんがそんなことをするから、兄貴は立ち直れないんだわ。自分の暮らしさえ大変なのに」 千春が向けた言葉に志津はそむいた。 「あの子は、こうしてやらないと世の中にどんな迷惑をかけるか分からんわ」 和男と志津との、共依存の関係は、彼が四十になるまで断ち切れなかった。 千春にとって志津の生き方は、常に反面教師として役立った。 陸の孤島のような峡の地で、夫婦に現金収入はなく、仕送りがなければ二人の暮らしは成り立たなかった。楽しみもなければ老夫婦は生きる張り合いも失われるだろうと、再三、旅行のプレゼントなどもしてきた。 定一も志津も、千春のプレゼントで、生まれて初めて飛行機に乗った。 「もういつ死んでもええわ」 沖縄の旅のあと、定一はとても喜んだ。 「龍宮城で過ごしたようや。ほんまにいつ死んでもええ」 クルージングの旅でもとても喜んだ。 定一の実子は、峡の地に近づこうとはしなかった。 「うちの子(実子)は、何にもしてくれへんのにおまえにばっかり世話かけてな」 定一は申し訳なさそうに詫びた。真っ白な髪と伸びた髭が、定一の寂しさを物語っていた。 良夫の働きで暮らしに困ることはなかったが、千春は仕事を続けた。彼女が仕事を愛したこともあるが、もう一方では収入を確保したかったからだ。 洋平にできなかった親孝行を、赤貧の暮らしをしている志津と定一夫婦にしたかった。 洋平が亡くなってから、千春を育ててくれたのはこの二人だったから。 洋平を裡に沈め、定一との父子関係に馴染んでいた。 洋平が生きていれば、車窓を眺め千春は遠い日に逝った洋平を偲んだ。海の色が千春に洋平を近づけてきた。海の色は少し明るくなっただろうか。 |
| 出雲をぬけると、寂しげな海原が千春の眼を覆ってきた。 にび色の日本海を見ていると、短調の曲を聴いているような気分になる。 真夏の一時は歓声があがり、若者たちで賑わったであろう海辺。 まだ夏が終ったばかりだが、千春にはかつて訪れた冬の印象が強かった。 あの日、鳴き砂の海岸で千春を守ってくれたのは洋平だった。 志津も和男も血を分けた身でありながら、彼女は気持ちを馴染ませることができなくなっていた。志津母子のために、洋平がそうであったように、鶴が羽を織物に変えたように、千春も羽をむしられていく・・・。血を分けた者への、理不尽な思いが募っていた。 厳しい冬、潮吹きの打ち上がる光景。 眼前にあるのは初秋の海辺だが、千春が見ているのは冬の海である。 暗い色をした海からは、呻き声が聞こえてくる。やがて、その声は、遠い日に洋平が男泣きした声と重なった。 洋平の涙の理由。それを和男が定一の葬儀のあと、無責任なほど容易に解いてしまった。千春が固く封印していた光景。彼女は生涯解くつもりはなかったはずの封印を。 またもや雨が零れ出していた。 細かい雨がガラス窓に、点線のような模様を描いていく。 たった一両のワンマン電車からは、他の乗客の姿は消えていた。 先ほどまで、日焼けした地元の人の顔があったはずなのに、気がつくと運転手の他には人影がなかった。 車窓からは、青いイガ栗が見える。たわわに実をつけ、線路上にせり出してくるほどの木もあった。 志津が十二歳の千春を連れて定一と再婚したのも、ちょうどこの季節だった。 心細い思いで定一の家に入った時、裏手に青いイガ栗がいっぱい覗いていた。 定一には先妻の子供が四人あり、志津は一度に六人の母親となった。千春以外の五人は皆、都会に出て働いていたので夫婦と暮らしたのは千春だけだった。血縁のない祖父母と義父のいる藁葺き屋根の家。蔦草が絡まりあうような、複雑な家族関係の始まりだった。 峡の地の、暗い家を基点に始まった蔦草の絡まりは、煩わしさばかりが絡み合い、千春の孤独感を一段と深めていった。 それから四十年近い時が過ぎ、藁葺き屋根の家の住人は志津だけとなった。その家に志津は一人では暮らせなくなった。 介護が必要な志津を、親身に看ようとするものは、千春の他に誰もなかった。 千春は口にはしなかったが、志津の生き方を問い質したかった。 「貧乏だけの方がよかった。どうして再婚なんかしたの? 」 菊夫たち義理の兄弟は、志津がいなくなったのを幸いに、藁葺き屋根の家にあった志津の生活用品をすべて焼き捨てた。志津は身ひとつで追い出された形となった。 千春は志津に対して責めたいことがありすぎた。定一に対しても。しかし、責めたい定一も、この世にはいない。 夫婦が元気なうちに、なぜ洋平の仇打ちをしなかったのか。 悲しげな海の色を見ていると悔しく思うものがあった。 老いて弱り果てた志津に、今では責めることも問い質すこともできない。 屈折した思いだけが、千春の裡でぎくしゃくと膨らんでいった。 |
| 遠い、遠い日に、確かに洋平は生きていた。 千春の記憶の中を漂う洋平は、微かで淡く、幻のようである。彼が生きた片鱗を確かめること、それが今回の旅の目的であった。彼の生きた証は、千春の生の証明でもあった。 大田市駅に着くと、雨はさらに激しくなっていた。 駅の時計は、ちょうど午後三時を示していた。 ベンチに座っている人に、市役所への行き方を訊いてみる。年の頃八十過ぎ、志津ぐらいであるが、かくしゃくとした老夫人である。彼女は当初、怪訝そうな眼を向けてきたが、すぐうちとけた様子で、杖を手にベンチから立ち上がった。 「よっこらしょつと」 千春も一緒に掛け声をしていた。仕事で、日頃老人と深く関わっているので、習性がふっと出てしまう。 「この道を右に、そのあと左に折れてなー、それからはまっすぐ突き進んで、右手に大きな建物が見えますからな。そうですな、あなたさんの足なら二十分ほどですかな」 微かに聞き憶えのある訛りが、千春の心細さを払ってくれた。ほんの僅か交わした会話だったが、どこかで祖先が繋がっているような、不思議な人懐かしさが湧いてきた。 洋平が生まれ育った土地、そう思うだけで気持ちが柔らかくなった。 老婦人に丁重に礼を述べ、束の間の出会いの別れを惜しんだ。 市役所までの道筋は、雨、雨、雨。 傘をさしていても、水を浴びたように濡れそぼった。裡の中にもやもやと留まっているものを、すべてさっぱり流してくれそうな、激しい雨脚がかえって快かった。 雨の中から市役所の建物が現れてきた。 玄関で傘を閉じ、市庁舎を見上げると、鄙びた駅とは印象の異なる大きな建物だった。 市民課は千春の他には人もなく、間のびするほど静かな窓口であった。彼女は教えられた紙に、住所と氏名、洋平との続柄を書いた。 「今流行りの、ルーツ探しですか」 遠来の珍客が珍しいのか、課の女の子たちが近寄ってきた。 「洋平さんの戸籍は抹消されていますね。どのあたりまで必要なのですか」 「分かるだけお願いします」 あまりに古い戸籍を求める千春を、彼女たちは、呆気にとられたような顔で見つめた。 「あのう、これを皆さんで召し上がってくださいますか」 千春は名古屋駅で買い求めた赤福餅のお土産を差し出した。他に渡す相手もない千春には、さりげなく受け取ってもらえたのが嬉しかった。洋平が生まれ育った土地であること、それだけで、千春にはこの地の人たちが親類縁者のような気がした。 千春の思いと彼女たちの接遇態度には、温度差が感じられなかった。 「その番地は、ここになります。今は別姓の方が住んでおられますね」 洋平の生家跡になる番地は、赤井という地名だった。コピーした地図、行き方を書いたバス路線表、市広報なども、記念にどうぞと彼女たちは渡してくれた。 洋平の類縁を求めると、手にした戸籍は四通もあった。 |
| 今夜の宿は志学にとってある。宿への行き方も市民課の人が教えてくれた。 市庁舎の坂を下った所に市立図書館があり、バス待ち時間をそこで過ごすことにした。 激しい雨のせいか、閲覧室に人影はなかった。 セルフサービスで、温かいお茶が飲めるようになっていた。雨で濡れた体が館内の冷房でいっそう冷えていた。温かいお茶は心身の隅々まで浸透していくようであった。 洋平が生きた時代に、こんな立派な図書館があったならば、彼はどれだけ喜んで利用しただろう。活字が氾濫する時代、活字に飢えた洋平の生きた時代を偲んだ。 洋平に対して情の薄かった志津ではあるが、彼の博学ぶりには一目おいていた。 「父ちゃんは、家が貧乏やったから、本を買うてもらえなんだそうや。そやから、落ちている新聞紙を拾って読んではったそうや。父ちゃんに訊いたらどんな字でも教えてもらえた。何でもよう知ってはったで」 知性や教養とは縁遠い志津も、洋平を生き字引がわりに使うことがあったようだ。 千春は処女出版した本を寄贈させてもらうことにした。 千春にとって洋平は、聖域に存在する最も恋しい異性である。彼と自分の足跡を、彼が恋い焦がれた故郷に、ささやかに刻みたいと思った。 待ち時間はたっぷりあった。 千春は四通ある戸籍の、新しい方から順番に目を通していった。 まず一枚目を開いた。冒頭に除籍の判が押されていた。除籍の判は、五十猛町が遠い過去の地であると、千春にメッセージを発信しているようで寂しかった。けれども、洋平が死ぬまで恋い焦がれた五十猛村に本籍があった。その証でもある。 新しく受け取った戸籍でも、邇摩郡五十猛村は大田市五十猛町に修正されている。戸籍を辿ると、昭和三十一年に名称変更がなされている。 「五十猛村はなあ・・・」 洋平は五十猛町とは言わなかった。 洋平を戸主に、編成された新戸籍、そこには洋平が千春の生まれる年に、志津と入籍している経過が読み取れた。 ―― 洋平は、父親欄が空白の和男と養子縁組し父親となっている。 和男の父親欄が空白、この事実に、千春は心底驚いた。彼女が初めて知った事実であった。千春は志津からこの事実を知らされたことはなかった |
| 激しかった雨脚も、いつしか柔らかな煙雨に変わっていた。 見知らぬ町を、教えられた通りに歩き、銀行前でバスに乗車。ちょうど勤めや学校の終る時刻で、小さなバスの中は混みあっていた。乗客の持ち込んだ雨雫や汗で、車内は湿度の缶詰さながら、むんむんしている。 道路を走る車の少なさに、嬉しい戸惑いを覚える。 愛知県では、通勤用に一人一台の車を動かす。千春や家族たち、周りの人たちも。 便利さの裏で、どんどん地球を温め、汚していることを日頃は忘れている。その罪深さを最も感じたのは、バスが公共施設などへ回り道をして立ち寄る、その優しさからであった。 慌てず、時をゆったり共有する人たちの顔を、千春は憧憬を抱きながら暫し見とれた。 いつも時間に追いかけられている彼女が、長い間忘れていた穏やかな表情が、車内には満ち溢れていた。 ミヒャエル・エンデが著した「モモ」には、人間から時間を奪っていく灰色の男たちが出てくる。時間を奪われた人たちは、節約した時間を時間銀行に預ける。お金を得て暮らしは豊かになるが人間性は廃れていく。 千春の周りを、灰色の男たちが囲んでいる。 彼女は灰色の男たちから逃れるように、洋平探しの旅を始めたのだった。志津が家に入ってきてからと言うもの、勤めの仕事や家事、志津の介護と、どれだけ時間があっても足りなかった。ゆとりのない暮らしが、彼女の心を廃れさせていた。 湿気で、バスの窓ガラスは拭いても拭いてもすぐ曇る。外の景色を窺おうとしたが、山容はやはり深い霧のむこうに隠れていた。 やがてバスは曲がりくねった山道をゆっくり登っていった。鼓膜がツーンと張ってきたのは、標高が高くなっているからだろう。 混みあっていた車内から、人影がすっかり消えていた。 「お客さん、志学ですよ」 運転手の掛け声がなかったなら、千春はバスから降りるのも忘れていた。 それほど彼女は、洋平の幼少年時代に近づいていた。先ほど、図書館で四通の戸籍にじっくりと触れ、数十年の時空が不思議な形で埋まっていく感じだった。 洋平の身内たちは、遠い昔に鬼籍の人となっていた。 |
| 今夜の宿は、深い山中にあった。 バスを降りると、夕霧があたり一面にたちこめていた。 宿は濃い霧に包まれており、数メートル先にあるものが見えない。 部屋の窓から見えるものも、薄い闇に戯れる乳白色の霧ばかりだった。 闇に沈む前、外は限りなく日常から離れた幻想的な空気に満ちている。 露天風呂も湯気と霧、ぼんやり灯るライトの明かりだけ。人の影ひとつなかった。 千春はずいぶん長い時間湯船に、浸っていた。 髪に伝わる雨滴の冷たさがなかったなら、彼女は霧と湯煙にまみれてしまいそうだった。 雨の冷たさに、ふと現在の時間にいることに気付かされる。 風呂から上がって、千春は再度戸籍を開いた。ゆっくり、ゆっくり手書きの文字を読み進めていく。 洋平の父、音吉は慶応の生まれ、母トヨは明治二年。 千春がこの世で出会えるはずのなかった祖父母たち。祖父母は、多くの子供をもうけたが、幾たびかの逆縁を体験している。逆縁で我が子と別れるつらさは、いかばかりのものであったか。出会うことのなかった祖父母の、気持ちを推し量ってみると、胸の奥が痛くなってくる。 洋平は二男になる。彼の同胞には、トナ、種次郎、トワ、アキ、春一、島一、アサノ、スエ、トナ、トモ。 没年月日や戸籍抹消理由が記録されているが、幼いまま、儚く世を去った人の、なんと多いこと。婚姻で籍を出た人が二人あった。 繋がる血。会うことのなかった叔父や叔母たち。 出会うことのなかった親族の人生が、公的文書の行間から滲み出てくる。 洋平の兄種次郎は夭逝し、彼の死亡届けの二日前、離婚の形で家を出た妻。この人は子を置いて去ったのち、もう一度、女としての人生を生きなおしたようだった。遺された幼児は、千春の従兄弟にあたる。その人が幼くして戸主となっている。 幼児である戸主の、後見人が洋平ではなく、弟の島一になっている。 洋平はその頃どうしていたのだろう。甥の世話で婚期を逸したと聞いていたはずだが・・・。 千春が生まれる二十年以上も前の、風化した遠い日のできごと。 時を隔てて繋がる血。戸籍で繋がる一族の縁に、心身が粟立ってくるのが分かった。 |
| 今日一日で知り得た事実は、千春にとって衝撃的なことばかりだった。 家を発って後の、たった一日足らずの時間が、彼女が生きた半世紀近い日々よりも、今この時は長く感じられた。遠い過去を追い求め、彼女自らの根源を探ろうとする内面の旅は、彼女の胸を再び衝いてくる、痛いことが多かった。 気持ちはひどく昂ぶっていたが、肉体的な疲れが眠りを誘い込んだのだろう。床に入るとすぐ、浅い眠りに誘い込まれていった。 彼女は夢の中で、ふうわり、ふうわりと浮いていた。 気球のような物に乗っているらしい。淡い眠りの中で、現の時と遠い過去とが、いっそう曖昧に混ざり合って、夢幻の世界が繰り広がっていた。 千春の枕辺で、大勢の人たちが寄り集まって宴を開いている。 囲炉裏を囲んで、音吉とトヨがいる。音吉がまだちょんまげ頭なのが可笑しい。 トナ、種次郎、洋平、トワ、アキ、春一、島一、アサノ、スエ、トナ、トモ。大勢の子供たちがいた。名前だけあるのに、みな顔がない。幼い子は、すぐ消えてしまいそうなほど、細くて儚く感じられた。 まだ少年の、洋平の姿があった。 洋平だけは分かる。千春の子供時代の写真と似た顔つきの男の子がいたから。洋平はくたびれた学生帽を深めにかぶっており、縞模様がある手織り木綿の、着物と袴姿であった。彼は、誇らしげな面持ちで、右手に白い巻紙を持っていた。 「お父、精励賞の賞状、もろうてきたぞ、ほれ」 彼は賞状をみんなの前で広げて見せた。 「よくやったな。だがな、中学に進むことはならんぞ。腹を空かしておる子が大勢おるからな。お前は兄ちゃんだから、働いてこの子らを食べさしてやらねばな」 ちょんまげ頭の音吉が言うのを、洋平は頭をうなだれて聞いていた。 囲炉裏に吊るされた大鍋の中には、野菜と海で捕れた魚がぐつぐつと煮え、美味しい匂いを漂よわせていた。それなのに、なぜか米や団子など腹の足しになる物がなかった。 「おっ母、はよまんま、ついでけれ。腹が空いてかなわん」 幼子たちが空の器を手に、しきりにトヨの前掛けを引っぱっていた。鍋にはいっぱい食べ物があるのに、子供たちがお腹を空かしているのが不思議だった。 これは夢、今夢を見ているのだ、千春はそう思っているのに再び同じ夢に戻り、洋平と出会うことができた |
| カーテンを開けると、昨日とはうって変わって、明るく透きとおった青空が広がっていた。昨夜、あれほど深かった霧も、嘘のようにすべて消えている。 千春は昨夜、夢と現の間を何度往復したことだろう。 夢の中に顕われた洋平少年は、故郷の海岸や神社の境内を元気に飛び回っていた。 魚を捕まえたり、兎を追いかけたり。 着物は粗末な木綿で裸足だった。しかし子供らしい素直な明るさに溢れていた。 行ったことのない場所が、夢に顕われたのは、洋平を生まれ故郷に連れて行きたい、彼女の深層心理を映しているからであろうか。 早めの朝食をすませ、風呂につかった。 昨夜は湯気と霧に覆われていたが、今朝は四方の山の姿を見ることができた。湯船から空を見上げると、青い毬栗がいくつも見えた。 栗が実をつける季節、十一歳の千春に、志津の再婚によって他人の家で暮らす生活が始まった。 カラスが数羽、青空に黒点を滴らせるように飛び去っていった。 過去の重さに喘ぐ千春を、黒いカラスがあざ笑っているような気もした。 バスの待ち時間は、まだ一時間ほどあった。 ロビーで地図を広げ、今日訪ねる五十猛町の位置関係をもう一度確かめてみた。 鳴き砂の聞こえる場所が、今まで気付かなかったが、洋平が生まれ育った近辺に四ヶ所もあった。五十猛町にある田尻浜、潮吹き浜、仁万にある琴が浜、ひちでん。 |
| 昨夜は霧に煙っていた宿も、バスの窓からくっきりと見ることができた。 碧空を背に、真っ白な洋館が屹立していた。あの館で、千春は不思議な体験をした。千春の枕辺に、祖先が一同に寄り集まって囲炉裏を囲んでいた。 もう二度とこの宿を訪れることもないだろう。 旅の寂しさが、妙にこみあげてきて、千春の胸をいっぱいにした。 いよいよ今日は五十猛町を訪ねる。五十猛町、いや洋平は五十猛村と呼んだ。 かつて千春が、鳴き砂の音を聞いた場所は、五十猛村のどこだったのだろう。 洋平を追って、此岸から彼岸に渡ろうとした彼女を、洋平が顕われて、強い力で追い払った。洋平に押し返され、にわかに海風の冷たさを感じた。 あの日見た碧空は、残影として定かに残っているのに、鳴き砂の音は、よく思い出せない。あの日のことも、夢幻だった。そうかもしれない。 海岸で、千春が確かに見たはずの洋平の幻影。 遠い冬の日のこと、人の記憶の曖昧さを思いながら、遺された者の心に生きる故人を思った。 昨夜は、夢と現が混在して彼女をますます分からなくさせた。 「定の松、三瓶山はここで・・・」 バスの揺れに、心地よくまどろんでいた千春の耳に、アナウンスが聞こえてきた。車窓からは、広い原野をおもむろに歩む、たくさんの牛や馬がいた。のどかな光景であった。 「三瓶山はどれですか」 思わず千春は、隣の席の婦人に、大声で訊いていた。 「三瓶山は、今日は見えんですなあ。大きな立派な山ですけに、また見にきなさいな」 「そうですか・・・」 千春はがっくり肩を落とした。こんなによく晴れているのに見えないのは、洋平が再び訪れることを望んでいるのかとも思った。 「父ちゃん、三瓶山は見えんなあ。きっとまた連れて来たげるでな」 洋平の写真を胸ポケットから取り出して、彼に語りかけた。車中から池田ラジウム温泉、小林鉱泉などの案内板が眼に入った。 「父ちゃんの故郷(くに)はな、温泉がよう出るところでな」 洋平の言葉を千春は思い出していた。 |
| 千春は大田バスセンターで、江津行きのバスに乗りかえた。 バスは国道九号線をひたすら西に向かって走り、車内は老人たちで集会所のような賑わいを見せていた。公共の乗り物が、人々の貴重な足になっていることを感じた。 バスの中から、青い海を見わたすことができた。今日の海は、ひときわ青く光っている。海の青さ、美しさに、千春の気持ちは晴々としてくる。 「父ちゃん、もうすぐあんなに恋い焦がれていた五十猛村やで」 彼女は胸ポケットから写真を取り出し、そっと洋平に語りかけた。写真を海に向けて、いつまでもかざし続けていた。 「姉さん、どこ行きなさる?」 先ほどから、老人たちが不審そうにこちらを見ていた。大きなリュックを背負った彼女の姿は、地元の老人たちにとって不審に感じられたに違いない。 彼女は赤井地区を訪ねるいきさつをかいつまんで話した。 「赤井に中村言うたら、二軒あるけど、どれどれお父さんの写真を」 老人たちは洋平の写真を、眼鏡をかけながら次々覗きこんできた。 「見覚えがないな」 どの人も残念そうに首を傾げた。しかし、初対面の千春に心を解いた様子で、彼女の周りを取り囲んできた。 「あんたはこの人の娘さんかね?」 「ええ、私は父の孫になるほど遅い時の子供ですので」 「生きてなすったら百歳? 去年、九十八で亡くなった人がおったが、その人ならお父さんを知っておらしたじゃろうにな」 「誰か分かる人がおるとええがな。遠い所から来なすったのにな・・・」 「お寺さんで訊きなすったらどうだろ」 「ありがとうございます。出雲の方々、皆さんなご親切な方ばかりで。皆さんとこうしてお話ししていますと、父が甦ってきたような感じがします」 「そうか、そうか。だがな、姉さん、このあたりは石見言うてな、大田から西は、出雲とは一線を画しておるんじゃ。昔は銀山でよう賑わった所でな。大森には銀山跡があるから見にいきなさるといい。山にゃ黄金の、やれ宝も秘めて、今日もわくわく白い雲」 古老は楽しそうに口ずさんでいた。この人からは、郷土を心から愛する誇りのようなものが伝わってきた。かつて教職にでも携わった人なのか、先ほどから言葉の端々から滲み出てくるものがあった。千春は、島根県全体を出雲と思い込んでいたことを詫びた。 「何のなんの、五十猛はなええ所だけ、ゆっくりしてゆきなされ。私らは大浦で降りるが、あんたさんのことは運転手に頼んでおくからな」 老人たちは、千春に後ろ髪を引かれるように、何度も彼女の方をふり向きつつ降りていった。姿が見えなくなると、千春は急に心細くなった。 |
| 赤井で千春を降ろしたバスは、排気を吹き残し走り去っていった。 バス停の周りは、想像をはるかに越えて何もなかった。付近にはお店か何かが立っていて、そこで訊けばいい、そう考えていた。しかし、バスが行過ぎた後は、人の姿を見かけることはなかった。 目前にあるのは、猛々しく育った雑草ばかりであった。 長い蔓(つる)を伸ばした葛草は、縄のように絡み合い国道九号線の路肩までせり出していた。その周りを虻が、ブーン、ブーンと微かな音をたて飛び交っている。 甘い香りが漂ってくる。その方向には、紫の小花が顔を覗かせている。香りの元は、葛の花であった。心細さに包まれた千春は、その香りに優しく気持ちが解かれてゆくのを覚えた。 昨日、市民課の人がくれた地図のコピーがあったことを思い出した。リュックからそれを取り出し、位置関係を確かめてみた。 千春は気を取り直し、あたりを少し歩いてみることにした。次々とトラックや自動車が、国道を走り過ぎていくのが、妙に寂しかった。やがて、民家をみつけた時は、ほっとした。 細い坂道を登って行った所に玄関口があった。飼い犬がしきりに吠え立ててくる。 「あのうー、すいませんが、ちょっとお尋ねしたいのですが」 千春は緊張した声で呼びかけてみた。暫くしても人は現れなかったが、玄関口は開いていて留守ではなさそうだった。犬が激しく吠え立てているので、彼女は根気よく待つことにした。 やがて手拭いで汗を拭いながら、男の人が出てきた。 犬はぴたりと泣き止み、尾をふり始めた。その人は、畑仕事から駆けつけてくれたようだった。 「何じゃろうのう」 千春は人の声を聞いた安堵感で、足元が崩れ落ちそうになった。 「実はこの番地を探しているのですが、どのあたりになるものかと・・・。亡くなった父が生まれた場所なのです」 千春は、所番地を書いた紙切れを見せた。 「そうかね、あんたさんのお父さんが・・・。内が○○番地だから、ここはあの家のあたりになるからあそこで訊きなさるといい」 その人は怪訝な表情をすっかり解いて、やさしい面差しで千春を見つめてきた。指差された家は、すぐ近くであった。 「お仕事中のところを、どうもありがとうございました」 千春はお礼の言葉もそぞろに、気持ちを弾ませながら坂道を降りていった。 山肌を撫ぜてきた風が、汗に濡れた肌を心地よく乾かしていく。 |
| 洋平の生家があったはずの場所、そこにはこぢんまりとした家が建っていた。 誰が住んでいるのだろう。もしかして、身内筋にあたる人が存在しているかもしれない。 遠い時の開きを失念し、千春は淡い期待を膨らませていた。父方の身内をいっさい知らない彼女の、身内に寄せる思いはひとしお強かった。 「ごめんください」 玄関先でも、千春の声は大きく弾んでいた。もう心細さは払われていた。 ほの暗い家の中から、眼鏡をかけた細面の女性が出てきた。 「唐突につかぬことをお伺いしますが」 千春は、いっさいの警戒心を解いて事の成り行きを話した。 「そんな古いこと私には、頭がひっくり返ってしまってな・・・」 その方は戸惑った様子を隠せなかったが、それでも懸命に何かを思い出そうとしていた。 「言われてみれば・・・、思い出しました。確か私らの先代が、中村さん言う人から買い取ったと聞いた憶えがあります。私がこの家に嫁いでくるよりずっと昔の話ですけに・・・、詳しいことは。中村さんは、赤井には二軒あります。あの家で訊きなさると、何か分かるかもしれません」 その人は、千春よりはるか年配の方であった。その方が嫁いでくる前のこと、その現実に、千春は遠く風化してしまった時を思い知った。身内筋が誰か生きているかもしれない、そんな淡い期待が見事に吹っ飛んでいくのが分かった。 旅立ってからというもの、彼女は現を潜りぬけタイムトンネルの中を歩んでいた。 霧に包まれた宿で開いた戸籍。そこには慶応や明治初年の数字が並んでいた。頭を冷たくしてみれば、遠い遠い昔に、洋平の身内は死に絶えているはずであった。 その人は詳しい説明ができないことを、しきりに気の毒がってくれた。 「そうですか・・・」 千春は少し肩を落としたが、洋平はこの土地に生まれ育っていた。所番地と姓が一致したことは紛れもない証であった。千春の裡から、熱いものが迸るように湧き起こってくるのが分かった。 「お家の周りを、少し歩かせていただいてよろしいでしょうか」 「いいですとも、ゆっくり見ていきなされ」 小さな山を切り開いたような山影の地に、千春は暫し立ち尽くし、あたりを見つめていた。 ――― 兎追いしかの山、小鮒つりしかの川、夢は今も――― 、千春はいつか懐かしい唱歌を口ずさみ、涙があふれ出ていた。涙の向こう側に、木綿織りの着物を腰元にたくし上げ、裸足でこのあたりを駆け巡る少年の幻影を見ていた。生活水を得るにも大変苦労した、そんなことを洋平は洩らしたことがあった。山影の地を見つめていると、洋平が、担ぎ棒を担って水を運んでいる姿が顕われていた。 今、丈高い雑草に覆われている土地も、冬は寒風が吹きぬけ、根深い雪に覆われたであろう。起伏の多い山間の耕地である。僅かの土地、そこから得た収穫物を頼りに生きていた祖先。一度も仏前に立ったことさえない先祖に向けて、千春は合掌していた。志津の身内は知りつくした満腹感があったが、洋平の身内とは現世に出会うことはなかった。 乏しい作物を分け合いながら、この厳しい自然環境に生き、千春に血を繋いでくれた祖先たち。 洋平が生まれ育った光景を追い求め、土地の空気に触れていると、千春の中を祖先の血が熱くを流れているのを感じた。 |
| 教えられた家を見失うまいと、千春は九号線を越え、線路を横切り、民家の裏地を通った。雑草が繁り、虻が彼女を追いかけるようにまといついてくる。正規の道が分からないので、通れる所を一直線に向かうしかない。 千春の旧姓と同じ表札を掲げた家の中からは、四十代半ばぐらいのご当主が現れた。千春は今までと同じように説明をした。 「ミンナ、イッケダキナ・・・ミンナツナガットルキ・・・」 見るからに人のよさそうなご当主は、千春を訝る様子はみじんもなかった。仏壇から過去帳を取り出してきて、そこに記された名前の上を一人一人指でなぞりながら、千春が求める名前を探してくださった。しかし、洋平に繋がる名前を見つけることはできなかった。 肩を落として帰ろうとする千春を、ご当主が追いかけてきた。 「そう言えば思い出したことがあってな。十数年も前になるかしらな、墓を大阪に移した親戚があった」 奥さんが年賀葉書の束からその人を探して下さっていた。 「あった、あったこの人」 確かに差出人は、千春の身内筋に名を連ねる方だった。彼女は小躍りしたくなる思いで名前を書き写させてもらった。千春の祖先をその方が、大阪で守ってくれている。先ほど洋平の生家で感じた熱い血が、またもや彼女の中を流れているのを感じた。 「お宅がこの方と遠縁だとすると・・・」 「ミンナ、イッケダキナ・・・ミンナツナガットルキ・・・」 せめて親戚筋でもと念じていた、それがささやかな形で叶った。名古屋のお土産を渡すことができる家があった。千春は嬉しくてならなかった。 千春は五十猛の風にもう少し触れていたかったので、赤井のバス停から乗らず、大田市方面に向かって歩き始めていた。この細い下り坂を歩いていけば海に辿り着くだろう。 山中の細い道をどんどん降りていったが、道中誰一人として出会わなかった。雑木林が生い茂る中にお墓があった。あの中に先祖のお骨があるだろうと思ったが、千春に立ち入る勇気はなかった。吹き出た汗がひんやりとしてゆく感じであった。 やがて明るい視界がひろがり、海が見えてきた。 あのあたりで洋平は、家族の食料になる魚や貝を獲ったであろうか。 |
| 辿り着いた所は、五十猛の港だった。 昨日までとは、まるで違う青い海、きらきらと輝く海原。 開けてきた視界が、内面の旅の終りを告げようとしていた。 そこには、何隻もの小船が停泊していた。 大浦の町、五十猛魚港にも、陽が燦々とふり注いでいる。 静かに海面を揺らしながら、一隻の船が出て行った。その光景を、千春は動く水彩画を追うように眺めていた。 漁港の傍には神社があった。 ここにも、平穏を告げる海風が吹きわっていた。 歩き疲れた千春は、この場所で一息つくことにした。 リュックを降ろし、木陰に座っていると、汗で濡れた肌が心地よく乾いていった。 今日の海は、五十猛の地が辿ってきた悲しい歴史も、静かに美しく蔽っているように見えた。 この地に生きた先人の苦労を、五十猛町の資料を紐解いて、千春は新たに知った。 歴史にも綴られた時化(しけ)や嵐、干ばつなどの自然の脅威。その中で、生きんがために、先人が味わったであろう辛苦。 厳しい自然を背負った五十猛の地には、現代人の想像も及ばない悲惨な歴史のひとこまもあったに違いない。千春の叔父や叔母にあたる人の多くが、若年でこの世を去っていた。 これは、悲しい歴史の証明でもあった。 洋平の晩年を覚えている千春には、想像が及ばないことではなかった。しかし、戦後生まれの彼女は、空腹のつらさがどんなものか知らない。自分はひもじくても、千春や和男に、洋平は食べ物を与えてくれた。 五十猛の風土に育くまれた洋平。 洋平の絆、千春の絆、夢にも見た五十猛の地に、千春は今立っていた。 先人を支え、守り神でもあった信仰、ここは何神社になるのだろう。 千春は鳥居の文字を確かめようとした。よく見ると、向こう側にも鳥居が立っていた。 船玉神社、もう一方は韓神新羅神社とあった。素盞嗚尊、五十猛命、大屋津姫命 抓津姫命を祀ってあるという。 悲しい歴史の足跡ばかりではない。島根県は、全国に誇る神話の国であった。 静かな海風を背に受け、韓神新羅神社の境内に千春と洋平がいた。 二人の向こう側には、煌く海が広がっていた。 「沖に見えるのは、神島、手前に見えるのが小神島じゃ。ここは神様が辿り着かれた場所でな。五十猛の名は、須佐之男命(すさのおのみこと)の子供、五十猛命に由来しておるんじゃ。」 洋平は千春を膝に抱いて、神話を語り聞かせているのである。洋平の硬い顎鬚が、千春の頬にあたって痛くてならない。 「いざなぎの命といざなみの命の子供が、すさのおの命と言うてな、乱暴者じゃったそうだ。それでこの国に流されなすった」 神話に秘められた人の道も、洋平は千春に伝えたかったのだろうか。故郷を語る洋平の声が、誇らしげに響いていた。 まだ働き盛りの洋平が、千春を肩車に載せて五十猛の海辺に顕われた。それは、とても幸福な絵であった。霧の宿で見た、夢幻の世界の出来事だったとしても。 |
| 千春にとって五十猛の旅は、始めからカメラを持たない旅であった。 しかし、遠い過去へ遡り、心のカメラに幾枚ものスナップ写真を、熱く焼き付けることができた。すでに今、五十猛の海や山をバックに、洋平と過ごした時間がしっかり納まっていた。時には、祖父母や叔父叔母たちまで顕われてきた。時代が明治、大正、昭和にまで遡ったり、平成の今だったり。繋がった血が醸し出す夢幻の光景を、思いがけないほど、幾枚も刻み残すことができた。 そこで出会った洋平は、遠い日、藁葺き屋根の家で見かけた悲しげな姿ではなかった。 これから先も、五十猛で過ごした時間を、心でふり返ればそれでいい。そう思っていたはずだった。しかし、五十猛を去ろうとする今、千春は記念になる確かな物が欲しくなっていた。 気がつけば、五十猛郵便局の扉を開けていた。 残暑の照りつける道を歩いてきた千春には、冷房の効いた屋内の涼しさがひときわ快く感じられた。 「あのう、五十猛町を訪ねた記念を残したいのですが・・・」 見慣れない旅装束の女に、カウンターの中にいる人たちの視線が集中してくる。 五十猛郵便局で通帳を作ろうとしたが、身分を証明する物を持って来なかったのでそれは叶わなかった。 「郵便物に、当局の消印を残すことが出来ますが」 局の方が控えめに提案してくれた。そうだ、その方法がある。千春は葉書を買い求め、その場で自分宛ての葉書を書いた。 「ところで、灯台へはこの道を行けばいいのでしょうか」 「少しきつい坂道がありますが、そこを登ってください。人麻呂の歌碑がありますよ」 千春は局員の方の計らいに、すっかり満足していた。 急な坂道を登り切ると、先ほどよりもさらに広い日本海を見渡すことができた。崖下の岩場で磯つりをする人の、のどかな姿があった。千春は、さらに木々の間を突き進んで行った。 |
| 雑木林を突き抜けると、夏草に埋もれるような形で歌碑が立っていた。千春は暫くそこに立ち竦み、刻まれた文字を追っていた。 つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石(いくり)にぞ 深海松 生ふる荒礒にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の 黄葉の 散りの乱ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上(やがみ)の 山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる我れも 敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ 「依羅娘子(よさみのおとめ)」は、柿本人麻呂の愛する女性であった。ここ石見に住んでいたという。彼女を思う気持ちが、遠く時を隔てていても千春の胸に伝わってくる。 明日かもしれない命の瀬戸際にいる大脇を、千春は旅の間、あえて心から外していた。 彼の終焉に関わる立場ではないことをわきまえていた。しかし、あれから後、大脇はどうしているのか、にわかに案じられた。どうぞ、私が名古屋に戻るまで生きていて。千春は心に祈り続けた。 時計は午後三時を過ぎていたが、名古屋への最終便は、まだ間に合うはずだ。夏草を踏み分けながら、急ぎ足で坂道を下っていた。オレンジ色の花が一輪、彼女を勇気づけるように足元に咲いていた。見かけたことのない花だった。 バス停に辿る道すがら、千春は何度も後を振り返った。 松島山が、初秋の空にぽっかり浮かび上がっていた。灯台の麓から眺めた日本海。あの眺めを忘れることはないであろう。千春は、何とも名残惜しい思いで五十猛町を後にした。 きっとまた、父祖眠るこの地を訪ねよう。 心地よい列車の揺れに、いつしか淡い眠りに誘われていた。 眼が覚めると、風景はすっかり闇の中に姿を潜めていた。少し眠った後も、肉体だけは、まだ睡魔に導かれそうになる。しかし、千春の裡には様々な思いが駆け巡っていた。 数十年のタイムスリップは叶わなかったが、しかしどこかで叶ったような気持ちになる旅であった。絵空事のような、遠い日を追い求めようとした旅。しかし、それは絵空事ではなく、千春自身の根源を探ろうとする旅だった。健康な肉体があって、旅ができる幸福、その当たり前の幸せにすら、彼女は気付こうとしなかった。慌しい暮らしの中で、眼に見えない何かが荒んでいたようであった。 全身をがん細胞に侵された大脇は、人として食べると言う最低条件さえ阻害されている。 それでもなお、「書くことが命」と言い切って、千春の前で磊落な笑顔をふり撒いていた。明日かも知れない命の中で、千春が出した処女出版本の批評文を書くために、病院のベッド上で、今もノートパソコンに向かっているであろう。残された命の灯を、盗むように。 風景は深い闇の中に落ちていた。 石見路を駆け巡った千春の旅は終った。 家に戻り着いたのは、午後十一時を過ぎていた。千春は、早々にパソコンを開き、大脇から届いたメールをまず一番にクリックしてみた。日付は今日になっている。彼の命の灯が、まだ灯されていることに千春は胸を撫で下ろした。 携帯電話からの送信は、著しく制約された生活を送る中での大切な通信手段であった。 病院にいては、絶望を与えられるだけです。 家に帰る道を選びました。 苗村さんの存在を、妻が一番喜んでいます。 唯一、大脇に残された希望の灯りは、住み慣れた家で、より人間らしく最期を迎えることだった。器具や管をつけたまま在宅医療にふみきるには、困難を伴うことが多すぎた。それでもなお、彼は自分らしく最期を迎える道を選ぼうとした。それを受け入れた大脇の妻の愛にも、千春の心は震えるほど感動していた。大脇夫婦の力になることができれば・・・。 千春は、洋平を看取ることができなかった。果たせなかった思いが、死と向き合っている彼に、少しでも向けることができれば。 洋平の最期は、志津が祖母と二人で、献身的に看取った。忘れていた記憶がはっきり浮かび上がってきたことで、さらに優しい気持ちになっていた。 「おーい、お茶が入ったぞ」 旅の荷物を片付けている千春に、良夫の声が届いた。 「おじいさんが、出雲へお参りするたびに、これを買うてきてくれはったな」 志津は懐かしそうに、出雲土産「あご焼き」に手を伸ばした。 -完ー |