望郷・・・ふるさとへのラブレター
老人フリータ まつもとまさはる |
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ふるさと五十猛に帰ってみたくなりました。ふるさとは私を迎え入れてくれるでしょうか?
それとも、長い無沙汰に忘れられ、拒否されるでしょうか?・・・不安です。
でも、帰ってみたいのです。いよいよ、明日ふるさとに向かって出発します。
(1999年10/26日、日記より)
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“帰心 矢の如し”
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2:00時、起床 妻と別れのコーヒを飲んだ・・・。
深夜の2:30時にPassat(車:札300さ64-24)で出発!!
京葉・首都高・R1(国道1号線)・横浜新道・R1・箱根新道・R1を経て、10;30時豊橋で木休憩する。
・・・四日市・亀山を過ぎ、鈴鹿峠では雨激しくワイパーはHiスピード稼動である。
車は快調に
登り坂を突っ走った。
長いながい・・・サラリーマン生活が終わりました。再就職の道を探したが、このデフレ不況では高齢者を雇うどころか、若い人々にさえリストラの波が襲いかかり就職先がありません。
こんな時、生まれ育ったふるさと五十猛が無性に恋しくなりました。
人間にも帰趨本能があるようです。いつかは、ふるさとに帰ってゆっくり羽を休めたいし、そして、今まで「ふるさとを留守にしていた後ろめたさ」を拭い去るため、何か役に立つことは無いだろうか?・・・ という気持ちも出てきました。
そのためには、ふるさとに2、3日の滞在でなく数ヶ月〜数年の長期滞在をしたいものです。
すでに東京大田市人会に提言してきた、
「ふるさとに皆で帰ろう」・・・長期滞在で15億円事業の創出を・・・の実現性検証調査もしたいと思います。
ふるさとで何が発見でき、どう感じるかが楽しみです。
心地よい緊張感を維持しながら、いつのまにかR9亀山・福知山・和田山を走りぬけた。養父町で休業中のGSがあったので、そこへ滑りこむと25:30時だった。そのまま眠り込んでしまったようだ。 |
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1999年10月28日(木) 晴れ |
“美しい山陰海岸国立公園”
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5:30時に目覚め、近くの『道の駅』で洗面をすませる。
R9からR312で豊岡へ・・・豊岡からは海岸線がきれいだと思われるR178を選んだ。
今子浦海岸で、雲の切れ目からの陽光が斜めに洩れてきて、荒海に浮かぶ島を照らした。島全面覆い尽くした木々は黄葉し美しく光っていた。・・・神々しい風景だ。
香住は松葉蟹で有名だ。京都・大阪という大消費地をが近いこともこの土地の有利さである。観光客対象の、広い駐車場と大型海産物販売所を備えて、漁業と観光の町の意気は高そうだ。
餘部の鉄橋を見上げて通過し、隣町の東浜駅で休憩した。
JR東浜駅の碑(悲)・・・概ね次のように彫ってあった。・・・「明治27年JR線路施行。
しかし東浜には駅が無く、汽車が通過するだけであった。地元民は、駅の設置を強く望み、駅舎の木材は村の木を売ってでも建てたいと、当局との55年間もの陳情交渉が続けられた。S24年念願叶い東浜駅がやっと開設された。・・・しかし、この駅の寿命も23年間でS47年に無人駅となった」とあった。
・・・・駅も町もひっそりとして人影が見えない。
R178は、国立公園の中を走り美しい風景が続いた。海の水は蒼く透き通り、
岩は荒海に削られて奇岩が多く、岩礁と島で海岸線の起伏は複雑で美しい。
どの入り江にも小さな集落と漁港があり、漁船が休んでいた。
集落の裏山は海にまで迫り、その険しい崖にには狭い段々畑とお墓があった。
お墓は、海と集落をを見下ろし、先祖と一体となった平和な風景をかもし出していました。
岩見からR9への入り口に、江戸時代に五穀豊穣を祈り奉った観音様が33体、洞窟の中に安置されていました。どのお顔も優しくかわいらしい。ローソクが灯り供え物も多く、村人のやさしさが伺えて心温まる思いがしました。
鳥取砂丘・島根県立美術館・宍道湖の夕暮れを観て、出雲市の「クアハウス湖陵」までたどりつく。クワハウス入浴料¥1,400、会員は¥50,000/年、入浴自由で割安とあったが、会員数は300人だという。
この人数では赤字で、隣の国民宿舎「国引き荘」との合同経営でも赤字だという。
70台収容の駐車場には、たった5台のみ・・・
いくら立派な施設を作っても、客がこなければ町の財政負担を増やすだけだ。 |
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1999年10月29日(金) 曇り-晴れ |
“車社会でJRは無人駅”
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R9沿線の山は黄葉し、赤瓦の民家がまばらに見えてきました。
やっと懐かしいふるさとに帰ったのだと感じました。
道の駅「キララ多伎」からの眺望がすばらしい!!
東に日御碕、西には田儀の海岸、眼下は砂利浜の海水浴場になっていました。
また、近くにある「多岐いちぢく温泉」が、道の駅に併設されたら尚良いのに・・・と思います。休憩場・産物売り場(和田珍味あり)や食堂があって、客の出入りは10万人/年を超えるという。
一方、近くのJR小田駅は無人駅になって久しいそうです。
R9から旅館街の建ち並ぶ、波根の街並に入ってみたが人影は少なく、オイコを背負った小母さん・家の前を掃除している人・ぶらぶら歩いている人の3老人だけでした。
無人の波根駅で休んでいると、バスと見間違うほどのジーゼルカーが入ってきました。山陰本線だというのに乗降客は無く、中に数人の客を乗せて大田の方へ行きました。数十分後に2〜3両連結のジーゼルカーが来たが、停まらず行ってしまいました。多分急行列車でしょう。
駅前には、5、6台のマイカーと約30台の自転車が放置してありました。
「掛け戸の松島」でスケッチ休憩してから・・・、
JR久手・大田・静間・五十猛駅に立ち寄ってみるが、いずれも無人駅です。
ただし、大田駅だけは、日中だけ駅員が勤務しているそうです。大田市駅前からのメーンストリートは、ずうっと向こうまで見渡せて人の姿がほとんど見えません。軽トラが数台道端に停まっていました。
我が五十猛駅にいたっては、駅舎も無く、駅舎前にあった松ノ木1本が生き残っていました。
そして、10台ほどの自転車が野ざらしで乗り捨てられていました。
高校時代(S28〜31年)の私は、1番列車で松江まで通学していました。
重い魚のカンカラ缶を背負った、数十人もの大浦のカカさん達がいつも一緒で、それはそれは賑やかな毎日でした。
当時のカカさん達の声や顔が懐かしく思い出されます。
あれから42年後の私は、流れながれて1,000kmも離れた千葉県に住んでいます。
車で帰って来たのでは、ますますJR駅は寂れてしまいます。
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1999年10月29日(金) 曇り-晴れ |
“神別れ坂の碑”
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いたけるの 神の昔の別れ坂 かへり見しつゝ 袖しぼりけむ ・・・島 多豆夫
いにしえの ロマンス秘めたる神々の 歴史きざまん いそたけの郷 ・・・・松原 光雄
書 大久保昭夫 建立者 松原光雄
賛同者 林 正幸、林 延、辻 雪男、和田 整
新しく建立されたこの神別れ坂の碑に迎えられ感動しました。私が大坂に職探しに発ったとき、ハル婆がオイコを背負い駅が見えるこの坂(黒橋)まで見送りしてくれたこと、を思い出し目頭が熱くなりました。久手で買った花と線香を持って、そのハル婆のお墓にお参りしました。
おなじ墓地にある田中店と西村屋の墓にもお参りしました。昔、大変お世話になった、優しい小母さ達がここに眠って居られるからです。
“大きな変化・・・人口減と松ノ木”
昼過ぎに、元小学校の校庭で休憩しました。この元小学校には、ハル婆・母アキ・郁姉さんが働かせてもらい、私を育ててくれたところです。当時の校舎は跡形も無く取り払われて、保育園と公民館が下の校庭に建てられていました。上の元校舎跡は、テニスコートとゲートボール場になっていましたが、誰も使っている様子は無く枯れ雑草に覆われていました。なんとも物悲しく静かな学校跡です。むかし、今の時間なら4〜500人以上の小・中学生達の声がこだまし賑やかなものだったのに・・・・。
田尻の浜・潮吹き・野田川・五十猛神社・シーサイドを歩きました。
畑井から流れくる野田川には、大きな鯉が悠々と泳いでいました。たまたま、湊の古老とお会いできて、お話を聞くことができました。・・・「すでに空き家が、湊にも数軒発生している。 また、年寄りが留守番している家が多いので、これから10年先には全湊100軒のうち10軒は空き家になるだろう。 小学生も、むかしは60人居たが今は17人に減ってしまった」と語られました。
・・・都市化が進んで日本全国の田舎が過疎化してしまいました。
家の跡取りまで都会に出てしまい、都会で結婚し子供や孫ができると田舎に帰れなくなってしまう。 田舎で家を守っていた親は亡くなり、留守番役の親戚の人も年老いて亡くなってしまった。 墓参りに帰る回数も減って、空き家は誰も看れなくなり終には朽ちて廃屋となってしまうそうです。・・・淋しい話です。・・・
もう一つ、淋しくなったことがあります。それは何百年もの風雪に耐え、神代から続いた五十猛の美しい風景の基になっていた、あの老古大松のことです。五十猛神社・薬師山・潮吹き・田尻浜のどこにもあの松林や岩に生え絵になっていた松の木が見られません。 これは、全国的に蔓延したあの松食い虫の仕業です。
あの懐かしくも美しい、北潮風に耐えて生えていた松や松林は、林 正幸氏撮影のポストカードと、氏が自己出版された「五十猛今昔」の写真集に残るだけで今はむかしの風景になってしまいました。
♪ 荒れる北風 ヤレ潮吹きだまり 何を包んでゆらゆらと |
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1999年10月30日(土) 晴れ |
”林 正幸氏との不思議な出会い”
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朝4時に目覚めたが外はまだ暗闇でした。・・・「よし、日の出を拝みにいこう」と決めました。松島山からは、三瓶山から昇る日の出が拝めるだろうと思ったのです。
野梅・内海辺・大浦港と歩きました。魚市場に来てみたら広島ナンバー車が4、5台もいます。何処から来たのかと問いますと、「三次」からだといいながら、サビキ仕掛けでアジゴの入れ食いでした。・・・羨ましい釣果です。
正定寺に上り合掌礼拝した後、茂梨が鼻にいきました。まだ薄暗い6時前だというのに人の気配がします。「オハヨウゴザイマス」と挨拶すると・・・
林 正幸氏が、愛用のカメラを抱いて、日の出を待って居られました。偶然、思わぬ時に思わぬ場所での出会いに驚きました。まず林さんが発行された「五十猛の歴史と民話」や「五十猛今昔」という本を、いつも読ませていただいていることのお礼を述べ、・・・その本にある風景が懐かしくなり歩きに帰ってきた事、「神別れ坂の碑」を見て感激したことなどを話しました。
林さんは、大変喜ばれ「是非とも家によって、ゆっくりと資料を見て行って欲しい」と親切なお言葉をかけてくださいました。
”原田康子さんも五十猛人”
「原田康子(作家・代表作:挽歌)さんが、五十猛に帰ってくれたので案内をしてあげた・・・彼女の祖先は嘉登(かど)出身・・・」だそうです。 日の出は、三瓶山と子三瓶の間から登ろうとしています。朝焼け雲の美しい変化を眺めながら、ひと時の夢世界の中に二人佇んでいました。・・・原田康子さんのように自分が育った土地でなくても、先祖が生まれ育った土地を訪ね来て、偲ぶことは大切なことだと思います。より多くの村出身者や、その子・孫が墓参りに回帰されたらいいと思いました。ふるさとを見直し、ゆっくり滞在される人が増えれば、五十猛が賑やかになるとおもいます。
東京『潮の会』で、春木屋の瑠美ちゃんが唄われる、五十猛小唄が誇らしい!!
♪♪ おらが石州の ヤレ五十猛生まれ 三瓶小山をせにうつす
♪♪ ヤレ五十猛よいとこね ヤレコリャ 本当によいところ |
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1999年10月30日(土) 晴れ |
”三瓶山への遠足”
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大田のスーパPalで食料など買い込み、三瓶山へ行くことにしました。
途中の円城寺(天台宗)という古刹から三瓶山を拝むと、頂上まで広葉樹のブナが茂り、紅葉し始めたところです。小豆原の埋没林と三瓶自然館は、東京大田市人会でも話題になったので観に行きました。他に、定めの松や浮き布の池も観ましたが何故か感動が沸いてきません。一番良かったのは、志学温泉の共同浴場「薬師湯」でした。
小5の遠足だったと思います。途中で山の子達に「ざいごべよう来たな トンボの黒焼きみやげにせっ」と元気に叫びながら歩きました。泊まった旅館の名は忘れましたが、当時私の家には風呂がなく貰い湯でしたから、大きな風呂に入れたことが大層うれしかったことでした。・・・それでおおはしゃぎして、先生に叱らたこと・・・多分この風呂では・・・と想い出していました。
昔の銭湯スタイルで入浴料も安く、ゆっくりとくつろげました。・・・♪いい湯だな・・・
ただ心配なことは、この温泉街が淋しくなったことです。ここまで来る途中には近代的なホテルが多数建っていましたが、温泉街に入ると昔は立派であったと思われる旅館が、今は空き家となり朽ち果てるのを待っているものが散在していたからです。
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1999年10月31日(日) 曇り |
湯場に行って洗濯しました。
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4:30時に目覚め、湯場に行って洗濯しました。
・・・この湧き水は、冬は湯気が出るほど熱く感じました。年中、皆がここで洗濯し野菜を洗う生活用水でした。また、昔の小学生は雑巾がけの掃除用水として、ここまでバケツで水を汲みに来たものです。
プールでは、朝早くから練習が始まり賑やかです。
まだ、このプールが無かった頃、 林 正幸氏は前之浜で水泳の指導コーチをされていたのです。その頃永井君を筆頭に荒木・清水君他名選手を大勢輩出されました。その後も、県大会での五十猛中学校の優勝回数は数知れず、5県大会や全国大会まで進出され、立派な成績を収められました。
こんな小さな村の僅かな生徒数で、よくそんな成績が収められたものだと不思議です。
三瓶山からの日の出をもう一度拝もうと思い、灯台まで300段の石段を登りました。しかし、残念ながら雲で朝日が見えません。でも朝靄のなか後光のような逆光に浮かぶ三瓶山のシルエットが水墨画のようでした。
7時から魚市が始まるとのアナウンスがありました。競りの様子を観に魚市場に行くと、魚屋(仁万)のヨッちゃんが威勢良く競っていました。後ろの方で、競り落としたトロ箱を数えながらトラックに積み込む指示をしているのは、多分タカちゃんでしょう。郁姉さんの親元の魚屋も世代交代されたようです。益々、繁栄発展されますようにと、そっと祈りました。
♪ 大浦港は ヤレ大漁にわいて 陸じゃ乙女の玉の汗
”村の礎を築かれた、仏に出会う”
その後、また松島山にのぼり忠魂碑にお参りしました。
この碑は、戦中は元小学校の東隅に建てられていましたが、終戦と同時に取り壊されてしまいました。長い間この碑が校庭の片隅に横たえられてありましたので、遊び疲れると皆でこの碑に座って休みしゃべったものです。
日本のために戦って亡くなられた御魂が祀ってあった、あの忠魂碑に座るとは、罰当たりなことをしたものだと後悔しお詫びいたしました。ここでまた45年ぶりに会えるとは懐かしい限りです。碑のてっぺんには、今にも飛び立とうとしている鷲まで復元されていたことに感動いたしました。
この碑には、西南戦争(1877年)以降、五十猛から出兵し戦死された方々の名前が刻まれています。第二次世界大戦では、103名もの多くの戦没者が居られたことを知り、改めて心から合掌いたしました。
お参りを終えて下りようとすると、上品なご婦人がお墓参りをされています。
挨拶をすると北川の奥様でした。「貴方は、松本さんでしょう・・・お母さんによく似ているから、すぐに分かりましたよ・・・」 と声をかけていただきビックリしました。もう、とっくの昔に死んでしまった母(仏)が、私の中に生きていたと言う事に気付かされたからです。
この墓地に眠って居られるご先祖の、またそのご先祖は、きっと素戔嗚尊の御子五十猛命にまでつながっていると思います。新羅の曾戸茂梨から木の種や文明を持ち帰った命は、日本全土に木を植え国土を緑にしました。更に、木地師・鋳物師・船神師・軍神など多彩な技術を広められたことを崇められ、全国約400箇所の神社で祀られて居られるそうです。
その遺伝子は子孫に継がれ、その子孫は五十猛に生きている方達だけでなく、全国・世界に雄飛し活躍されている五十猛人に継がれています。むかし、小学校の時に意味も解らず歌っていた校歌が蘇えってきます。
♪♪ 八重の潮路をふみさくみ 村の礎 かためんと
渡り来ませし われらの祖先 ゆかりの地なる 我がそのお
元気で働けるのはご先祖様のお陰です。ご先祖様は、今生かされている五十猛人の体の中に生き続けているのです。
全国・世界に散らばった五十猛人の子・孫が、いつか必ずこの墓地に孫・子を連れ帰り、ご先祖さまを偲び拝んでほしいと思いました。
・・・ナンマンダブ・・・ナマンダブ・・・ナマンダブ・・・・・・・・・
手を合わせ 人が仏に見えるとき 我にもほっと仏が宿る
茂莉が鼻に出て、神島と子神嶋をスケッチしました。数隻の船がワカナ釣りをしています。釣り人が来たので挨拶すると、もう10数年前だったかと思いますが・・・ワニ漁でTV出演されたカー坊さんの弟さんでした。これから大崎が鼻で陸釣りをされるそうです。・・・ワカナが陸から釣れるとは羨ましいことです。東京では、船を仕立てて沖に出ても坊主のことが多いのに・・・。ワニ漁のTV放映は、その数年後にもあって柳町の吉岡さんが出演されました。勇ましいお姿を拝観しながら、「ふるさとの誇り」だと東京の職場で自慢したものです。
同級生のマサエさん家の「ヤマセ」へワカナを買いに行きました。
妻にクール便で送って、孫達に美味しい刺身をいっぱい食べさせてやろう。・・きっと喜んでくれるだろうから・・・・・・。
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1999年10月31日(日) 曇り |
”いそたけ巡礼”
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昼食の後、また歩くことにしました。
報恩寺の本堂にあがり仏様を拝み賽銭を入れました。昌也(長男)が小さい時、従姉妹の里美ちゃんと仲良く通ったペンギン保育園があったお寺です。寒い冬でしたから「雨が降るから・・・」「風が吹くから・・・」と言い訳し、保育園に行くのを嫌がり暖かい家で遊びたがったそうです。・・・今は保育園の跡形もありませんが懐かしいお寺です。
地頭所の医王山当善寺(897年開山真言宗)は、五十猛で最古のお寺ですが無住寺になっていました。本堂に入って拝もうとしましたが鍵がかかって入れません。仕方なく前で合掌礼拝をしました。今は、わずかな檀家と地域の人達に守られているのだろうと思われます。この寺も朽ち果てていくのでしょうか?・・・
しかし、お大師山は昔と変わらず、厳然と偉容なお姿でこちらを見下ろして居られました。
♪ 山にゃ黄金の ヤレ宝も秘めて 今日もわくわく白い雲
・・・こんな景気のいい唄を、何時か皆で歌いたいものです。
嘉庭では、松原さんを尋ね「神別れ坂の碑」に感動したお礼の挨拶をしました。
嘉庭は逢浜川の上流で、堰があるところは川幅が広くなり満々と水を湛えた池になっています。小6の頃?五十猛の川調べを班毎にしたことがありました。その時に池の向こう岸まで石投げ競争をしましたが、池を越え届いたのは吉川君だけでした。彼はその後、五十猛中の野球部でピッチャーになり活躍しました。・・・今はもう亡くなってしまい,会うことができません。
先輩のピッチャーには、木下純一さん、林 茂さんがいました。そして、吉川秀夫、清水
宏、千賀義明君とつづき、ピッチャー千賀義明君を中心に『潮の会」会長の林皓平君、幹事の小渕君や田中君がいたS30年には県大会で準優勝に輝きました。
バタコのオープンカーでの凱旋パレードを、村中の人達が称えおおいに沸いたものでした。その後、世代が変わっても清水隆志君がスポーツ少年団で指導コーチした努力が実り、大田市では何回も優勝し県大会に出場しても立派な成績を収められました。
大屋から丹波への道を間違えて、宅野に出てしまいました。大浦に帰るには宅野隧道を通らねばなりません。その隧道の中は、大型貨物車がびゅんびゅん走るから、その轟音がこだまし生きた心地がしません。歩き抜ける時間がとても長く感じられました。隋道を抜けると赤井で、飯塚・筧・林君や林(女)・石橋(女)さんがいたところです。飯塚君の家はシロ橋の近くで、野梅の学校までの距離が学年で一番遠いところです。彼は、小1から中3まで寒い冬も暑い夏も毎日歩いて通っていたのです。車社会の今から思えば凄いことだと思います。
赤井と古浦の境のトンネルは今も健在でした。
小2(S20)の遠足の時?でしょうか・・・ある暑い夏の日、トンネルの中は風が通り抜けて涼しく、皆で腰を下ろして弁当を食べました。食糧難の時代ですから、我が家は白い米が見えないほど芋蔓やアラメを混ぜたものが主食でした。ハル婆は珍しくも麦飯と梅干・焼きカレイを弁当に詰めてくれて、私には大変なご馳走で美味しく食べた思い出がよぎります。
♪ 赤井丹波 ヤレ地頭所の里に 今日も飛ぶ飛ぶ青い鳥
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1999年11月1日(月) 雨 |
| ”どうして、皆さん優しいのですか?・・・” |
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ヤマセに、昨日お願いした魚の代金を支払いに行きました。
合計¥4,480・・・内訳:魚代¥2,500/ワカナ8本、クール便・箱諸経費小計¥1,980
”どうして、皆さん優しいのですか?・・・”
懐かしい、頼ちゃんが座敷に上げてくれました。そして、おいしい昼飯をご馳走してくれました。
頼ちゃんの姉さんも、外から帰られて、いろいろお話をしていただきました。
和田のお母さんが、「東京の息子が世話になった」・「和田珍味の絵手紙をもらった」ことなど、私のことを話して居られたそうです。・・・いいえ、こちらこそお世話様になっています。・・・有難うございます。
西谷征治君が東京の一流デパートで、陶芸作品の個展を開くという「案内絵はがき」が来ていました。頼ちゃんは、「立派な作品を見たいが・・・・東京までは・・・」と残念がって居られました。
友達の美智子さんが、遊びにこられいろいろな話に花が咲きました。その話の中に、私の同級生であるM,N,O君の家がバラされ更地になってしまった事を知りました。空き家も増えて、家賃?万円で貸家にしている例もあるそうです。
そこえ、先輩の繁さんが来られて、こんな思い出話をしていただきました。
・・・「ハル婆は、寒い朝は炭火鉢に火をおこし、昼飯時には熱い味噌汁をつくってくれた。授業の始と終わりには時間ごとに鐘をカンカンと叩いて全校に知らせてくれた。また、役場・郵便局・農協などへの公務小使いのほか、先生から個人的に頼まれた魚の買い付けで、漁師の家々をよく回っていた。・・・子供にも先生にも優しい人だった」と・・・懐かしくも有難い供養話に、胸があつくなる思いで聞かせていただきました。・・・本当に有難うございました。 |
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1999年11月1日(月) 雨 |
| ”町の豊かさって何ですか?” |
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40年間、生産・販売・利益の前年度比アップという、企業戦争の中で明け暮れ生きてきた私にとって、今日の出会いは有難いものでした。懐かしいふるさとの風景と優しい人々との対面で心癒され、心が豊かになることを味合うことができました。
”町の豊かさって何ですか?”
日が暮れたので湯迫温泉にいき、湯に浸かりながら見知らぬ仁万の人と話し合いました。
彼は、「地元で,稼ぐための資源や職場が少なく乏しいほど、若者は都会に出て行き帰ってこなくなる。・・・馬路町の過疎は酷いものだ・・・」と言いました。
・・・要するに、地元の資源量と職場人口の関係は、自ずと適正にバランスされるものだと思います。だから過疎化を嘆くより限りある資源を大切に育み、より少ない人で分け合えば1人当たりの物質的豊かさは高くなります。しかし、これでは縮小均衡経済ですから、町としての発展はありません。人口減に歯止めをかけ、少し拡大均衡経済に発展させたいものです。今ある環境と資源を大切に育み「更に、新しい資源を外からも取り込み創出する」ことができないでしょうか?・・・だからどうする???・・・問題は、物心両面を豊にするために、何を資源に利用できるか? ということだと思いますが・・・・難しい・・・。
何故だろうと 問うのが本当の知恵である ・・・松林寺
この世に生き残る生き物は 変化に対応できる生き物だ・・・ダーウィン
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1999年11月2日 雨曇り |
| ”気にかかること、それは同級生” |
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大田市民病院に、親戚の叔母さんをお見舞いしました。
意思はしっかりしているが、口と手足が利かず思うように話が通じない。息子さんは、O町のパン屋で働き、夕方には病院に立ち寄ってくれるそうです。また、訪問して息子さんにも挨拶しておこう。
”一番気にかかること、それは同級生”
懐かしい淳ちゃんの家にTELして訪問しました。・・・隣の屋敷が広い更地になっていたので、その訳を聞くと、
「・・・その屋敷を年老いた親戚のTさんが看ていたが、何十年も空き家で荒れ果て、維持管理までできなくなってしまった」・・・仕方なく、東京に行ってしまった家主に連絡許可をとり更地にしたそうです。・・・草茫々のあばら家が隣にあることは、いろいろ迷惑で嫌な思いをされたと思います。
中・高校生の頃、毎年、大晦日夜中12時になると暁さんが迎えに来てくれました。それは五十猛神社へ初詣にお参りするためです。たった二人でも五十猛命から「デデンゴデンデン」と大太鼓を叩いて祓い清めて貰いました。暁さんとの年賀状のやり取りが、いまだに続いているのも命のお陰だと思います。暁君には淳ちゃんに貰った銘酒を土産にしました。
千賀君と石橋君には、ヤマセで酒を買って手土産にしました。こうして挨拶回りしながら、友の消息を尋ね歩きました。 また、還暦の同窓会に出席できなかったので、その時の様子を尋ねると、「・・・都会からも大勢帰ってきたが、せっかく遠いところから帰っても、祝賀会行事がおわると、皆いそいそとまた都会に行ってしまった。まだ、現役で忙しい人は仕方ないが、五十猛でゆっくりしたい人もいたと思う。 親は死に家は解体され、家があっても家主は兄弟や甥っ子の世代に代わり、ゆっくりと落ち着ける場所が無くなってしまったからだろう・・・。 恩師の金子先生も心身ともに不自由な身となり、還暦祝いの席にお招きすることができなかった。・・・」とのことでした。
”s28年五十中卒業生の状況まとめ”
総数69人(男35・女34)人の同級生だったが、9(男8・女1)人死亡し現在60(男27・女33)人が健在です。現居住地は在郷が26(男9・女17)人、外住が34(男18・女16)人です。女性の在郷が多いのは、婿取りと近在への嫁入りが多いせいです。また、皆が育ち住んだ家は、54軒が残り15軒は使われていません。15軒の内訳は、空家7軒、更地8軒です。残っている54軒は、皆立派な家に建て替えられていました。しかし、54-26(在郷者数)=28軒は兄弟や親戚または他人に渡っていました。したがって、今すぐ外から帰っても気兼ねなくゆっくりと過ごせる家はありません。
在郷者の26人の家でも、子供は親の後を継げず他の職業に就いたり、都会に出て行ってしまっているところが多いようです。昔のように1次産業だけでは生活が成り立たず、職業での跡継ぎ世襲はごく限られたものになってきましたから、この点については田舎も都会もおなじことだと思います。
”休耕田と少子高齢化の不安"
・・・五十猛のあちこちを歩いて感じたことは、人口は減っているのに家の軒数はむしろ増え、しかも各家が大変大きく立派に立て替えられていることです。一人当たりの居住面積は都会生活者の何倍いや何十倍もあります。そのうえ、田畑・山林を抱えているうちもあります。昔は田畑・山林など不動産が多いことが裕福さの基準でしたが、今は、それが休耕田になり荒地と化し、税金・維持管理することが負担になりました。けれども、都会生活者からみると、これだけの資源を遊ばせて何と贅沢な生活であろうか・・・と思われます。
問題は、歯止めがかからない少子高齢化です。また核家族化が進み、子供と離れて暮らす年老いた親たちの淋しさと心細さです。これをどう解決できるか・・・何か良い知恵は無いものでしょうか?・・・
それは、五十猛の外で働き生きている私達の悩みでもあります。 |
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1999年11月3日(水) 文化の日 曇り雨 |
| "今日は東に・・・・” |
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魚津の静が巌・逢浜川河口から荒神山・野田川河口から薬師山・地頭所のお大師山をスケッチしながら移動しました。
お大師山は、福間元村長さんの家の前からの眺めが、一番美しいと思います。
福間家に人の気配がないので不思議に思い、通りがかりの小母さんに「留守なのですか?」と尋ねました。小母さんは、「空き家で、近所の80歳のお婆さんが、雨戸を開け閉めして家を守っている・・・」といわれました。あの名門福間家でさえ空き家になっていることに、ショックを受けました。地頭所18軒のうち当善寺を含めて4軒も空き家だそうです。まだまだ充分住めるものを空き家にせざるを得ない家主の辛い気持ちを何とかしてあげられないのでしょうか?
空き家のままにすることは、火災や防犯上だけでなく荒れた時には美景観の面でも、近所だけでなく町にとっても困った問題だと思います。市政としても、防火保安・環境保全・資源有効利用の観点から、適切に利用できる条例を作り、家主とそれを利用したい人とを結びつけられないでしょうか?
今日は、文化の日・・・文化って何ですか?・・・物心両面の豊かさだと思います。
しかし、金・物・地位・名誉にこだわり過ぎて、金と物さえ多ければ幸せだという考えが人の心をを支配しています。金・物への欲望は限りなく、欲求は更に膨らみ、心貧しくなりました。金・物はほどほどにして、もっと心豊に暮らしたいものです。
絵画・工芸などの芸術に限らず、五十猛の神話・民話・盆唄・方言・歴史そして魚料理の数々や生活習慣など伝承されてきたものは、私達の心に深く染み付いている立派な文化だと思います。今後も大切に守りたいものです。
午後は、大田市民会館で、文化祭を観ました。
大田市民の心豊かな作品で埋まり、心の文化の一端が、会場にあふれて大変賑やかでした。この会場から心の豊かさが一層育まれ、大田市がますます発展されますように祈りました。
久手の 林 謙正先生の所にお伺いするも、報恩講の時期で忙しく留守にされておられ、お会いできませんでした。仕方なく、本堂に勝手に上がって拝みお布施をおいて帰りました。・・・お寺の入り口掲示板に・・・・
知恵が有るから人間は尊い しかし知恵があるから
あさましい
なぜだろうかと問うのが ほんとうの知恵である
・・・と書いてありました。
夕方になり日はとっぷりと暮れて、険しい坂とカーブの多い金剛山安楽寺にお参りしました。
このお寺は、「コンゴセ」と呼んでいました。小1の時、初めての遠足で大きな怖い顔の仁王様を見てビックリしました。紙をグチョグチョに噛んで投げ、「仁王様にくっつくと良いことがある」と聞き、夢中になって投げた思い出の寺です。本堂や庫裏がある頂上にたどり着くと、佐伯信行住職が大歓迎をしてくださいました。いろいろお話をしてくださいましたが、この寺は島根県では珍しい真言宗だそうです。ご住職は、他にも大森の羅漢寺や観世音寺をも掛け持ち兼務されているそうです。 |
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1999年11月14日(日) 晴れ |
| "山あいの紅葉街道が続く" |
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米原で3時に目覚めてしまう。R21で土岐まで走りました。少し休みながらコースの検討をしました。
東海道R1の単調で退屈なコースを避け、山と紅葉の風景を楽しむコースを選びました。R19で恵那に、R257で稲武町まで南下し、R153で北上し茅野市へと計画しました。このコースは風景だけでなく、温泉も楽しめそうです。
早朝の外気は冷え込んで4℃、谷間から霧がたちのぼり、その向こうの山は全山紅葉しています。R153上郷橋からみる紅葉の濃赤があまりにも美しくスケッチ休憩しました。この先も、紅葉が何処までも続きました・・・。
平谷村は、"ひまわり湯”を中心に道の駅・スキー場・スケート場・キャンプ場・ハングライダーなど 、あらゆるアウトドア遊戯施設を備え「村おこし」をしていました。近県からは日帰りの客がわんさかとつめかけ、つかの間の娯楽を求めて賑やかでした。200台の駐車場には三河・豊橋・名古屋・浜松・岐阜・松本ナンバー各方面からの車で満車です。ひまわり湯に入りたくても、あまりの混雑ぶりを見て、仕方なく、諦め通り過ごしてしまいました。
・・・ふと、日曜日でも静かだった、観光大森の風景が頭をよぎりました。
飯田市に入ると、取り囲む山々の向こうに雪をかぶった赤石岳が見えます。
町は銀杏並木の落ち葉で、道路一面黄色の絨毯を敷きつめたようです。また、りんご並木には大きな赤いりんごがたわわになって、目を楽しませてくれました。
伊那の町からR361で高遠の町へ、そしてR152に乗りかえて茅野市を目指しました。この山峡の道では周囲一面黄葉して、山里は黄金一色に包まれていました。あまりの美しさに駐車して何時までも眺めていたい気分でした。険しいヘアピンカーブを経て、峠越えしたら眼下に茅野市が一望できました。
茅野市からは、R20(中仙道)ですが、両側の山は紅葉真っ盛りです。行楽客の車もまた真っ盛りです。
・・・一人旅は気ままでいいものです。しかし、淋しいものです。
原村の道の駅「信州蔦木」に到着したのは午後3時でした。この駅には、蔦の湯(¥400)という温泉つきで、露天風呂・打たせ湯。圧泡湯・寝湯・サウナなどクワハウス方式です。心身ともにリラックスして、湯上りすると広い畳の休憩室に横になって休みました。家族ずれが弁当をひろげている楽しい食事風景も見られました。
駐車場105台分は常に満席で、20:00時にやっと駐車率60%に減りました。
東京とその近郊の客を相手にできる位置にある原村が羨ましく思いました。
・・・出雲市の「クワハウス湖陵」を思い浮かべ、客容量の差はどうしようもないと思いました。
一方、志学の「薬師湯」・「湯迫温泉」・「温泉津温泉」のひなびた風景が懐かしく、本当にゆっくりのんびりでき、心癒される温泉だったと思い出されます。
"いやな酷道 R20”
何時までも続くラッシュを避けて、夜遅くなってから出発しました。
どの車も速度規制を良く守っていると思ったら、パトカーの巡視中でした。巡視が解除されると皆いっせいに帰路を急ぎスピードを出します。R20は道幅が狭い上にカーブが多く、・・・だから制限速度は30〜50kmになっています。特に危険を感じるのは、笹子トンネル近辺と相模湖近辺です。そこを猛スピードで先を急ぎます。
・・・R20はいやだ!! 安全で早い中央高速道を選ぶべきだあったと思うのは、後の祭りです。
都会の人達の休日・行楽は、つかの間で命がけです。
狭い住宅から開放され外に出ても、行楽地は人でごった返し、行き帰りの道路は渋滞し、渋滞が解ければ猛スピードを出し、これでは命がけだし明日の仕事にも差支え、マイナス影響大です。だから、ストレスが溜まっていらいらする人が多いのだと思います。
深夜、永福ICから首都高速道に乗り入れましたが、信号の無い快適なドライブができました。しかし、東関道高速に入ってから急に眠気がさしてきたので、26:30時幕張SEで、終着を目前にして休眠しました。
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1999年11月15日(月) 曇り雨 |
| "やっと生還・・・2,830kmの旅/20日間" |
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すぐ横の車がうるさいアイドリング音を出し続けています。その騒音で目が覚めてしまいました。・・・都会では、他人への迷惑を考えず、自分さえ良ければよいと思う人が多すぎます。
さあ、もう一息で終着の我が家です・・・。
8:00時に市原市に生還しました。…累計走行距離:2,830km…20日ぶり妻と喜びの対面です。朝風呂にゆっくり入って、やっと本当にくつろぐことができました。
3歳の孫とは汽車のトーマスゴッコをして遊び、小3の孫とはイトーヨーカドウへ約束の玩具を買いに行きました。・・・今日からまた普通の生活に戻ります。
・・・五十猛の自然環境と居住空間の広さが羨ましく思い出されます。(・・・半年後、手狭だった我が家も、子供家族4人が出て行き、核家族化してしまい淋しくなりました)
”この旅での使用経費・・・”
総合計:¥116,511/20日間
飲食費:¥28,586・・・食堂利用は2、3回、質素な食事でした
寺院美術館拝観¥12,800・・・郷土の正定寺・報恩寺・松林寺への御布施計¥7,000を除けば他は美術館等入場料
交際費:¥17,730・・・友人訪問時の手土産5本の酒代¥9,250、トロ箱1杯の魚と送料¥4,480、お見舞代¥3,000など
交通費:¥38,886・・・ガソリン¥31,886/275.52l/2,830km(10.27km/1l)、高速道料金¥5,600、その他駐車料等
その他:¥18,509・・・入浴風呂代:¥3,780/10ヶ所、フィルム・写真現像代:¥6,900、
お花・線香代:¥2,290等。
旅館代を一銭も使わずにオートキャンプで通しました。
コース・日程もその時々で変更自由とし、気ままな旅ができて楽しかった。これも一人旅だからできることです。
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